2020/04/01
要旨
- 今回の新型コロナウイルスによる経済ショックは、感染拡大を防止するために対人接触を遮断するために通常の経済活動を中止したことによる「供給ショック」であり、需要の落ち込みによる景気後退とは性質が異なる。
- 需要の落ち込みである「需要ショック」であれば通常の「需要喚起策」でショックを打ち消すことや緩和することは可能だが、今回の新型コロナウイルスによる供給ショックでは「需要喚起策」は効果を持たない。
- この供給ショックによって生じているのは、経済活動を「自粛」している事業者の売上の喪失であり、またその従業員の給与や雇用が失われつつあるという危機的状況である。この状態を放置して廃業・倒産、失業が現実化してしまえば、日本経済の総生産はさらに落ち込むことになり、本格的な恐慌が生じてしまうことになる。
- これらの事業者や個人に対して早急な「現金」での支援が必要である。中でも公的機関への「キャッシュアウト(支払い)」は今すぐにストップさせる必要がある。また現金による所得補償や損失補填も早急に実施する必要がある。
新型コロナウイルスで生じたショック
今回の新型コロナウイルスは、その感染力と新型であることによる免疫機構の不在によって、対人接触を伴う経済活動を大きく縮小させている。内閣府が実施している「新型コロナウイルス感染症の実体経済への影響に関する集中ヒアリング」では、様々な業界から急激な需要の落ち込みが報告されている。いくつかの業界の例を以下に示す。
第3回ヒアリングより(2020年3月21日実施)
- 百貨店業界:2020年3月の対前年売上はマイナス40%に達する予想(リーマンショック時で-10.1%、東日本大震災で-14.7%、2015年3月の消費税増税後の駆け込み需要反動減で-19.7%)
第4回ヒアリングより(2020年3月23日実施)
- 鉄道業界:2月下旬から新幹線、在来線の輸送量が対前年比で約50%以上減少
- 貸し切りバス事業:売上見込対前年比が3月で79%減、4月で64%減(3/16時点)
- 航空業界:当面4ヶ月の減収見込みは約4,000億円以上、年間では1兆円規模の減収
- 旅行業界:2020年1月から6月までの売上が対前年で1兆円超減少見込み
第5回ヒアリングより(2020年3月24日実施)
- ライブ・エンタメ業界:通常の年間市場が約9,000億円規模のうち、既に開催中止による入場料金損失は1,750億円、今後見込まれる開催中止を合わせると合計で3,300億円規模の入場料金収入が消失
これらの産業では、新型コロナウイルスの感染拡大により売上が一瞬のうちに消失してしまったことになる。しかもそのショックの規模は瞬間風速的に見てもリーマンショックと同等かそれ以上の落ち込みになりそうである。
さらに、現時点で感染拡大の抑え込みの成否は不明であり、感染拡大の長期化・大規模化の可能性は否定できない。そのため、経済活動の縮小がどの程度の期間続くのかも不透明である。今後さらに今まで以上の「売上消失」が継続する可能性は高い。
これは「供給側」のショックである
しかし、これらの売上消失が生じたのは決して需要側が原因ではない。この点がいわゆる一般的な景気後退と、今回の新型コロナウイルスによる経済ショックが異なる点である。一般的な景気後退は、需要側の需要意欲の減退によって総需要が減少することによって引き起こされる。原因は様々だが、消費者や企業が将来の見通しに悲観的になれば需要は減退する。
しかし、今回の新型コロナウイルスで生じた経済ショックは、消費者や企業の需要意欲が減ったわけではない点に注意が必要である。実際、先日無観客で行われた大相撲春場所も、もし新型コロナウイルスの影響がなければおそらく多くの観客で賑わったことだろう。実際、今年1月の初場所は15日連続の満員御礼となっている。わずか2ヶ月の間に、相撲の需要が全くゼロに落ち込むことなど考えられないだろう。
つまり今回の新型コロナウイルスによる経済ショックは需要側ではなく、供給側が原因となって生じていることがわかる。これは「感染拡大防止のための活動中止」が引き起こした「供給ショック」である。たとえ需要があってもそれを消費することができないという意味では、経済から供給能力が失われたことと等しい影響がある。しかも、供給能力は平時と変わらず機能しているにも関わらず供給がなされないという点では、供給ショックの代表的なケースである自然災害による供給能力の喪失とも性格が異なる。
「供給ショック」の簡易的なモデル
さて、ここで今回の新型コロナウイルスが引き起こした供給ショックに関して、簡略なマクロ経済学のモデルを使って影響を説明したい。参考としたのは、ノーベル経済学賞を受賞したニューヨーク市立大学大学院センターのポール・クルーグマン教授の一連のtwitterでの投稿である(以下のURLで示したtweetからのスレッドを参照
https://twitter.com/paulkrugman/status/1241689422090944513)
クルーグマン教授の用いたモデルは「AD-ASモデル」と呼ばれるもので、「AD」は「総需要」、「AS」は「総供給」を意味する。この分析のフレームワークは、一国の経済活動を需要側・供給側の双方から見ることができる点、また物価水準と総生産(実質GDP)との関係も見ることができる基本的なマクロ経済モデルである。
一般的に、短期でみれば総需要(AD)は右下がりの曲線になり(図1のオレンジ線)、同様に短期の総供給曲線(AS)は右上がりの曲線(図1の水色線)になる。この両者の交点が短期的な均衡点となり、その均衡時点の物価水準と総生産量が決まることになる※1 。
また一般に総需要曲線のシフト、特に左下へのシフトは総需要の減少を意味し、物価水準の低下(デフレ)と、総生産の縮小(景気後退)をもたらす。そのため、現在では金融政策や財政政策を実施することによって総需要を刺激することで、総需要曲線の左下シフト(これがいわゆる「需要ショック」)を小さくしたり、元の水準に押し上げたりすることが一般的となっている。
一方で、総供給曲線の左上へのシフトはちょっと厄介で、この場合は総生産の縮小をもたらす点では「需要ショック」と同様だが、一方で物価水準の上昇、つまりインフレ率の上昇ももたらしてしまう。これがいわゆる不況とインフレが同時に起きてしまう「スタグフレーション」だが、この場合、政府や中央銀行が供給ショックを打ち消すための政策介入は非常に難しくなる。なぜならインフレを抑え込もうとするとさらなる総生産の縮小を招き、失業が増えてしまうし、逆に総生産を増やすために需要を刺激するとインフレ率はさらに上昇してしまうというトレードオフを抱えてしまうのである。
さて、クルーグマン教授の示したモデルでは、供給ショックとそれに続く需要ショックもモデルに取り入れている。
まず今回の新型コロナウイルスのパンデミックによって生じた「供給ショック」は、総供給曲線(AS:水色線)の左上方向へのシフトである。これは供給が急激に縮小したことを示している(図2の水色矢印方向へのシフト)。このとき、物価が一定だとすると、総生産は物価水準との交点まで減少する(水色線と灰色線との交点)。そして、総生産の減少は失業の増加を意味する。つまり、この減少した総生産が「供給ショックによって生じる不可避な(inevitable)失業」だとクルーグマン教授は説明する。
この場合の「不可避(inevitable)」というのは、新型コロナウイルスの感染拡大を抑止することが最善の社会的政策であることを意味しており、この失業を無理に解消しようとすると通常と同様の経済活動を行うことになってしまう。これは感染拡大を生じさせるため、クルーグマン教授は、この供給ショックを打ち消そうとするべきではないと言う。
もう一方で、需要も減少することが考えられる。これはオレンジ色の矢印で示された総需要曲線(AD:オレンジ線)の左下方向へのシフトである(オレンジ色矢印方向)※2 。そしてこの需要ショックによって生じるさらなる総生産の落ち込みは、総需要曲線と物価との交点になる。そして、需要ショックによってもたらされる失業は、「回避可能な(avoidable)な失業」であると同教授は示唆する。
そして、同教授は経済政策として重要なのは、供給ショックによって生じた失業に見舞われた国民は自然災害に罹災した被災者と同様の立場であるので、これ以上の経済的困窮によって生活基盤が破壊されないように支援するのが政府の役割であるとする。一方で、需要ショックによる失業については、金融財政政策によるリカバリーが可能であり、通常の需要刺激策を活用すべきだとしている。
求められる経済政策の方向性
さて、上のモデルでも見たように、今回の新型コロナウイルスによる経済ショックは多くは供給側の要因に根ざす供給ショックと見るべきである。そのため、現時点で採用すべき経済政策は、需要喚起策・需要刺激策では「ない」。現在必要なのは、供給側の事情によって売上や給与を絶たれた事業者や個人に対する素早い支援である。そして、その目的は感染が収束した将来の需要の回復期に十分な供給能力を保てるように、現在の供給能力をできる限り維持し続けることである。
そして「供給能力を維持する」ためには、雇用と給与の維持、資金繰りと損失補填による財務基盤の維持が決定的に重要である。そして、この政策対応はスピードが不可欠な要素である。今回の新型コロナウイルスによる経済の縮小はサービス業を直撃しているため、雇用の調整スピードの速さ、事業者の資本力の脆弱さなどを考えると、現金による給付とスピードが最優先されるべきである。
供給ショックによる失業・廃業を回避するための政策として少なくとも以下の2つは早急に実施すべきである。
-
(ア)
公的なキャッシュアウト(現金流出)の即時停止
年度末を迎え、様々な租税が事業者や個人のキャッシュフローを悪化させる事態は回避する必要がある。そのためには以下のような施策を即時実施すべきであろう(既に実施されている施策も含む)
- 国税・地方税の支払猶予もしくは免除
- 来年の住民税の減免、もしくは免除
- 消費税の納付期間の延期もしくは免除
- 厚生年金保険料等の猶予もしくは免除
- 社会保険料、国民年金等の納付延期もしくは免除
- 公共料金の支払いの延期もしくは免除 など
-
(イ)
現金による所得補償、損失補填
今回の新型コロナウイルスによる経済ショックは、対人接触が多いサービス業を直撃した。そしてサービス業での需要の大規模な落ち込みは、サービス業の雇用に直接的なダメージを与えるだけでなく、関連する産業にその影響は派生していく。すでに食料品や飲料などは需要の縮小に見舞われており、さらにサービス業での設備投資の冷え込みは製造業への需要減少という形で顕在化するだろう。また、サービス業は中小・零細事業者が多く、また非正規雇用者も多い。そのため雇用の調整スピードは非常に早いことが予想される。その意味では、素早い現金給付が最も効果的であろう。
今回の新型コロナウイルスによる供給ショックは、感染拡大を防止するためにはやむを得ない措置であることは事実である。しかし、その負担が一部の業界や立場の弱い非正規雇用の方々に過度に押し付けられるべきではない。現在、「自粛」によって感染拡大を抑止している行動には経済学で言うところの「正の外部性」を社会全体にもたらしている。この外部性に対してきちんと報いることが政府の役割であると信じる。
-
※1
クルーグマン教授の元々のtwitterで示されたモデルでは、縦軸はインフレ率であり、横軸は雇用となっている。しかし、議論の枠組みは変わらないため、ここではクルーグマン他『マクロ経済学 第2版』東洋経済新報社(2019年)の第12章のモデルに準じた表記を用いている。
-
※2
一般に「供給ショック」が生じた場合は、価格上昇によるインフレ率の上昇が見られるが、供給ショックよりも大きい需要ショックによってその影響は相殺されているか、よりデフレ圧力として働くことになる。
執筆者
柏木 亮二
金融イノベーション研究部
上級研究員
お問い合わせ先
【提言内容に関するお問い合わせ】
株式会社野村総合研究所 未来創発センター
E-mail:miraisouhatsu@nri.co.jp
【報道関係者からのお問い合わせ】
株式会社野村総合研究所 コーポレートコミュニケーション部
E-mail:kouhou@nri.co.jp