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木内登英の経済の潮流――「賃金と物価の好循環は起きるか」

金融ITイノベーション事業本部  エグゼクティブ・エコノミスト  木内 登英

#木内 登英

#時事解説

2024/01/12

2024年は、日本で「賃金と物価の好循環」が実現できるかどうかの節目の年になる、とされています。歴史的な物価高騰を背景に、2023年の春闘では30年ぶりの高い賃上げ率となりました。2024年には賃上げ率が一段と高まり、それが価格に転嫁されていき、物価と賃金が相乗的に上昇するようになる、ということが期待されています。

持続的に実質賃金上昇率が高まることが重要

しかし、広く使われるようになったこの「賃金と物価の好循環」という言葉の意味するところは、実のところあまり明確ではないと思います。賃金と物価が相乗的に上昇することが好循環と表現されていますが、仮に両者が同じペースで上昇する場合には、名目賃金上昇率から物価上昇率を引いた実質賃金上昇率は変わりません。実質賃金上昇率やその将来見通しが変わらなければ、個人の生活水準の改善ペースやその将来見通しも変わりません。
経済的に重要なのは、実質賃金がどの程度上昇するかです。名目賃金上昇率を無理やり押し上げることで、一時的に実質賃金上昇率を高めることはできます。しかしその場合には、分配が労働者に偏り、労働分配率が上昇する中で、企業収益は圧縮されます。その結果、企業は雇用や賃金の抑制に動き、一度高まった実質賃金上昇率は、再び低下してしまうでしょう。
分配に変化がない場合、実質賃金上昇率は労働生産性上昇率で決まります。従って、労働生産性上昇率を高め、その恩恵を企業と労働者とが分け合う形で、持続的、安定的に実質賃金上昇率が高まっていくことを目指すのが重要なのです。

経済の潜在力を向上させる地道な努力の積み重ねが重要

持続的に実質賃金上昇率が高めるために、少子化対策、労働市場改革、インバウンド戦略、大都市一極集中の是正、外国人労働力の活用などの成長戦略を進めていくことが政府には求められます。それらが成果をあげ、先行きの成長率見通しが高まれば、企業は設備投資を活発化し、それが労働生産性上昇率を高めるでしょう。
企業には、生産効率の向上、技術革新の進展に向けた努力を日々続けることが求められます。また個人には、業務の効率性を高める努力をするとともに、学び直し(リスキリング)を通じて常に技能を磨き、新しい知見を身に着けるように努めることなどが求められます。
政府、企業、個人(労働者)がこうした地道な努力を積み重ねることで、潜在成長率や労働生産性上昇率などの経済の潜在力が高まり、その恩恵が企業、家計(労働者)に及んでいくのです。また成長率が高まれば、税収増加を通じて政府の財政環境も改善します。
労働生産性上昇率、潜在成長率といった、いわば「実質値」を改善させることが重要です。物価上昇率や賃金上昇率といった「名目値」の改善は、こうした実質値の改善の結果として生じるものであり、名目値を直接操作しようとしても、企業や個人にとっての経済環境は好転しないでしょう。
日本銀行が物価上昇率、インフレ期待(物価上昇率見通し)を高めることを目指すことや、政府が企業に賃上げを求めることについては、実質値の改善という観点では問題点があるように思います。

インフレ期待が高まるだけでは実質個人消費は増えない

「インフレ期待が高まれば、デフレマインドが払拭されて経済は良くなる」、という考えは、直感的には多くに人に受け入れられていますが、経済学的には必ずしも正しくないように思われます。
標準的な消費理論に従えば、現時点での実質個人消費支出は、主に、将来に亘る実質所得(賃金)の総額の見通しと実質金利で決まります。インフレ期待が高まれば、個人が、価格が上昇する前に急いで消費を増やすようになるというのは、理論的には正しくないのではないかと思います。
インフレ期待が高まっても、その分、先行きの名目所得の増加率の期待が高まれば、購買力を決める実質所得の見通しは変化しないからです。また、インフレ期待が上昇する分だけ名目金利が上昇すれば、現在と将来の消費の割合に影響を与える実質金利の水準も変わりません。
また、物価の上昇によって名目の企業収益が増えても、企業が実質設備投資を拡大させることにはならないでしょう。物価上昇率を上回る収益、つまり実質収益の増加率が高まらなければ、企業が設備投資 を拡大させることも、また、雇用を拡大させることにもならないでしょう。
2023年には物価上昇率と名目賃金上昇率が顕著に高まりましたが、これは輸入物価の上昇による一時的な側面が強いです。これをきっかけに日本の成長率が高まり、国民生活が改善するとの予想は、強い根拠を欠いているのではないかと思います。
そうした変化が起こることを期待して待つといった受け身の姿勢ではなく、政府、企業、個人(労働者)の3者が経済の潜在力向上に向けて、日々地道な努力を積み重ねることが重要なのです。

インフレ期待の上昇は金融政策の有効性を取り戻すことを助けるか

ただし、インフレ期待が高まることは、日本銀行の金融政策にとっては意味のあることです。インフレ期待が高まるもとでも名目政策金利の水準を変えなければ、実質金利が低下し、景気刺激効果が発揮されるからです。
また、インフレ期待が高まれば、実質金利の水準を変えずに、経済活動に対して中立的な金融政策を維持しながら、名目政策金利の水準を引き上げることも可能となるからです。
その場合、経済危機、金融危機など大きなショックが生じた際に、政策金利を一気に引き下げることで、その経済への痛みを和らげることができるようになります。それは、金融政策に期待される大きな機能の一つであり、この点から、日本銀行が金融政策の有効性を一定程度取り戻せることを意味します。
足もとで物価上昇率が上振れたことで、企業や個人の中長期のインフレ期待は幾分高まっていると考えられます。しかし、それが持続的であるかどうかは不確実です。労働生産性上昇率、潜在成長率といった経済の実質値が変わらない中での中長期のインフレ期待の上振れは、一時的な現象に終わり、持続的ではない可能性が考えられます。
労働生産性上昇率が高まらず、実質賃金上昇率が改善しない中で、企業が消費財・サービスの値上げを積極的に進めていけば、いずれ個人が消費を手控えるようになり、企業の値上げは難しくなります。それは結局、個人の中長期のインフレ期待を再び低下させてしまうでしょう。

日本銀行は慎重に政策修正を進める

日本銀行が金融緩和政策の修正を本格的に進め、政策金利の水準を顕著に引き上げることができるようになるためには、経済の潜在力が高まり、そのもとで物価上昇率やインフレ期待が持続的に高まることが必要となります。そうした環境を金融政策の力で作り出そうとして上手くいかなかったのが、過去10年超に亘る異例の金融緩和策だったと評価できるかもしれません。
しかし、今、日本銀行は、政府、企業、個人(労働者)の3者が地道に経済の潜在力向上に努め、その結果、金融政策が有効性を取り戻すことができるようになることを、強く期待しているのではないでしょうか。
日本銀行は、異例の金融緩和がもたらす副作用を減らす狙いで、2024年にもマイナス金利政策解除などの政策修正に乗り出すことが予想されます。しかし、経済の潜在力などに大きな改善が見られない中では、それが金利の大幅な上昇に繋がる可能性は低いと思われます。
経済の実力以上に政策金利を引き上げることで経済を悪化させてしまうリスクに十分に配慮し、日本銀行はこの先、慎重に政策修正を進めていくことになるでしょう。

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プロフィール

木内登英

エグゼクティブ・エコノミスト

木内 登英

経歴

1987年 野村総合研究所に入社
経済研究部・日本経済調査室に配属され、以降、エコノミストとして職歴を重ねる。1990年に野村総合研究所ドイツ(フランクフルト)、1996年には野村総合研究所アメリカ(ニューヨーク)で欧米の経済分析を担当。2004年に野村證券に転籍し、2007年に経済調査部長兼チーフエコノミストとして、グローバルリサーチ体制下で日本経済予測を担当。2012年に内閣の任命により、日本銀行の政策委員会審議委員に就任。5年の任期の後、2017年より現職。
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株式会社野村総合研究所
コーポレートコミュニケーション部
E-mail: kouhou@nri.co.jp

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