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最低賃金引き上げによる経済活性化策、中小企業再編策に潜むリスク

2020/10/02

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最低賃金の引き上げで地方活性化を図る狙い

菅首相は、9月の自民党総裁選挙前に示した自らの政策綱領の中で、最低賃金の引き上げを地方活性化策の手段、と位置付けている。その詳細については語られていないが、一般に、最低賃金の引き上げが(地方)経済活性化に繋がる経路については、以下のような点が考えられる。

  • 賃金引き上げを通じて消費を喚起する
  • 都市部との賃金格差を縮小させ、地方での人口流出に歯止めをかける
  • 賃上げで労働者のモラール(勤労意欲)を高め、生産性向上に繋げる
  • 人件費上昇に耐えられない低生産性企業の退出を通じて、生産性向上を図る

昭和34年に制定された「最低賃金法」の第一条では、以下のように多様な側面から、最低賃金設定の目的が説明されている。

「この法律は、賃金の低廉な労働者について、賃金の最低額を保障することにより、労働条件の改善を図り、もつて、労働者の生活の安定、労働力の質的向上及び事業の公正な競争の確保に資するとともに、国民経済の健全な発展に寄与することを目的とする。」

さらに2007年の法改正では、「労働者の健康で文化的な最低限度の生活を保障する」という、社会政策的な狙いが改めて付け加えられた。そのもとで、「最低賃金で働いた場合の収入が生活保護の支給額よりも低いことから、勤労意欲を削いでしまう」という弊害の解消も目指されたのである。最低賃金を法律で定める国は多いが、その主な狙いは貧困対策であるように思われる。

政府主導で4年連続の3%引き上げ

日本の最低賃金は、全国一律ではなく都道府県ごとに定められる。労働者、使用者、公益の3つの利害をそれぞれ代表する委員からなる中央最低賃金審議会が、厚生労働大臣の諮問を受けて毎年7月頃に「目安」を作成する。それを踏まえて、各都道府県で最低賃金水準が8月頃に決定され、10月頃から発効するのである。

近年は、最低賃金の決定に、政府が強い影響力を及ぼしてきた。2016年度の「骨太の方針」では、「年率3%程度を目途として」、「全国加重平均が1,000円となることを目指す」とし、全国加重平均の最低賃金は、2016年から2019年までの4年間連続で3%超となったのである。

2012年に発足した安倍前政権は、デフレ脱却を目指し、日本銀行に大規模な金融緩和を要請した。しかし、金融緩和策のみでは物価上昇率は容易に高まらないことが明らかになったことや、物価上昇率だけ高まって賃金上昇率が高まらなければ、消費者の購買力は低下してしまう、等との批判を受けて、次第に賃金引き上げを志向するようになった。

コロナショックを受けて今年の最低賃金は現状維持

当初は、春闘で企業に働きかけて賃上げ率の上昇を目指したが、それが期待された程の成果を上げないことが明らかになると、政府がより直接的に影響力を行使できる最低賃金の引き上げへと、ターゲットを移したように見えた。

中央最低賃金審議会では、労使の意見の隔たりが埋まらずに、最終的には公益委員の見解が最終的に答申となりやすい。最低賃金の引き上げに、政権の意向を大きく反映させることができるからくりがここにある。

ところが今年は、新型コロナウイルス問題により経済情勢が悪化したことを踏まえ、経営者側の意見を取り入れる形で、中央最低賃金審議会は「現行水準維持が適当」との判断を示すのみで、目安を示さなかった。これは、リーマン・ショック後の2009年度以来初めての事態である。

地方では40県が1~3円の引き上げを決めたが、東京、大阪など7都道府県は引き上げを見送った。全国平均では上昇幅は僅か+0.1%と、2000年代初頭以来の低水準にとどまった。

最低賃金の引き上げは雇用にマイナス

最低賃金の引き上げが、賃金全体の上昇や賃金格差の縮小に寄与するという点では、多くの識者の意見は概ね一致している。しかし、それが経済全体に短期的、あるいは中長期的に好影響を与えるか否かについては、意見は分かれているのである。

最低賃金の引き上げ後に、企業は人件費を抑えるために、雇用を削減する可能性がある。その場合、雇用者数と一人当たり賃金の掛け算で決まる総雇用者報酬が増加するかどうかは明らかではない。従って、最低賃金の引き上げが、短期的に経済全体に好影響を与えるかどうかも明らかではないのである。

海外の研究結果では、最低賃金の引き上げが雇用に与える影響はないとするものと、マイナスの影響が生じるとするものとに分かれている。しかし、前者よりも後者の結果の方が数としては多い。国内の研究結果でも、東京財団政策研究所(注1) によると、雇用にマイナスの影響が生じるとする分析結果数が、影響はないとする分析結果数を大きく上回っている。

政府が今年の最低賃金の引き上げを見送ったのも、雇用に悪影響が及ぶことを懸念したためだろう。この点から、政府も最低賃金引き上げが雇用削減に繋がるリスクを理解していると思われる。

最低賃金引き上げは物価上昇を通じて消費にマイナスも

さらに、最低賃金の引き上げによって人件費が増加する場合、企業はそれを価格に転嫁する可能性もある。その結果生じる物価上昇は消費にマイナスに作用するだろう。

最低賃金の水準が賃金の平均水準を大きく下回っている場合には、最低賃金の引き上げは、企業の総人件費に大きな影響を与えない。そもそも、最低賃金以下で働いている雇用者数が僅かであるためだ。その結果、企業が雇用の削減や価格引き上げに動く余地は小さくなる。

しかし、日本では、最低賃金の水準が近年切り上がってきた結果、引き上げが企業の総人件費に与える影響は次第に大きくなっている。最低賃金を引き上げる結果、新たに賃金を引き上げる必要が生じる雇用者の割合は、高まっているのである。それは、2009年の2.7%から、2019年には16.3%まで上昇している(注2) 。

これらの点を踏まえると、最低賃金の引き上げを通じて短期的な景気浮揚を目指す政策には、相応にリスクがあると考えるべきあり、最低賃金の引き上げは慎重に決定することが求められる。

最低賃金の大幅引上げは優良企業も退出させかねない

他方、最低賃金の引き上げがより中長期的に経済に好影響を与える経路としては、冒頭で見たように、「賃上げで労働者のモラール(勤労意欲)を高め、生産性向上に繋げる」、「人件費上昇に耐えられない低生産性企業の退出を通じて、生産性向上を図る」などが考えられる。しかし、これらの仮説については、十分な実証研究の蓄積はない。

後者については、菅首相のいわゆるブレーンの中に、そうした主張をする者がいることから、菅首相は今後、最低賃金の引き上げを通じて中小零細企業の淘汰を進めていくのではないか、との観測も一部にある。

しかし、そうした政策はかなりリスクが高いと考えておくべきではないか。最低賃金の引き上げによって、健全な企業も淘汰されてしまう可能性があるからだ。

低賃金の労働で成り立つ企業を、一律に、脆弱な経営基盤の上で成り立っており、既に競争力を失った淘汰されるべき存在、いわばゾンビ企業と考えるのは、あまりに短絡的だ。低賃金の非熟練労働で成立する企業、業種の中には、我々の生活に欠かせないサービスを提供するものも多い。最低賃金の引き上げによってそれらが失われてしまえば、それは大きな損失である。

また、中小企業の退出、つまり倒産、廃業が、中小企業全体の生産性にマイナスに働くとの研究結果もある。これは、生産性の高い優良企業が、後継者不足の問題から廃業を決めるようなケースで生じ得よう。

一律の最低賃金引き上げが、こうした優良企業に廃業を促し、その結果、中小企業全体の生産性が低下してしまう可能性も考えておかねばならないだろう。

適切な政策手法での中小企業再編を

この先、コロナ問題の影響が沈静化してくるに及び、コロナショックで大きな打撃を受けた業種、例えば飲食業、宿泊業などで、企業間の優劣がより明確になっていこう。消費者に選ばれる企業は、売り上げがコロナショック前まで戻るかもしれない。他方、消費者に選ばれない企業の売り上げは、コロナショック前の水準には戻らず、倒産や廃業を迫られるかもしれない。このように、企業がどの程度の競争力を持つのかは、顧客の判断に委ねられるべきであり、政府が最低賃金の引上げを通じて線を引くのは正しくないだろう。

そして、倒産や廃業を余儀なくされる企業に対しては、政府は業種転換を支援し、また従業員の転職を支援することが、政府にとって重要な施策となるのではないか。また、後継者不足によって優良企業が廃業に追いこまれることも避けねばならない。それには、地方銀行が仲介する形でのM&Aが有効だろう。

菅首相は、地方経済の活性化と共に、中小企業の再編を進める考えも示している。これは重要な論点であるが、ただしそれは、最低賃金の大幅な引き上げではなく、以上のような政府の支援策を通じて進めていって欲しいところだ。


(注1)https://www.tkfd.or.jp/research/detail.php?id=3347
(注2)https://www.apir.or.jp/research/8450/

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