植田総裁の記者会見からの示唆-正常化戦略の防衛
はじめに
日銀が金融政策の現状維持を決定した今回(10月)のMPMを受けた植田総裁の記者会見をもとに、金融政策の正常化戦略を維持するための論点をいくつか検討したい。
「時間的な余裕」の削除
植田総裁は、これまで使用してきた次回の利上げに向けた「時間的な余裕」という表現は今回は使用しないし、もはや不要になったと指摘した。
その上で、「時間的余裕」という表現が、米国経済の下方リスクとそれに伴う金融市場への影響を見極める必要があるとの考えに基づくものであり、足元の経済指標が明確に好転した中で、下方リスクを取り立てて注視する必要がなくなったと説明した。
日銀は事態の推移に沿って次回利上げの考え方を修正してきたことになる。8月初には金融市場が不安定な間は利上げを行わないと説明し、9月会合では金融市場の不安定化の原因は米国経済の下方リスクにあるとして、これを特に注視する必要があると指摘した後、今回はもはやその必要がなくなったという判断を示した。
ただし、「時間的な余裕」を削除しただけでは、金融政策の運営方針が非連続に変わった印象を与える恐れもあった。その意味で、展望レポートに加わった「米国をはじめとする海外経済の今後の展開や金融資本市場の動向を十分注視し、わが国の経済・物価の見通しやリスク、見通しが実現する確度に及ぼす影響を見極めていく必要がある」という表現は、運営方針の連続性を補強する上で意味を持つ。
これらを通じて市場との対話が成功したかどうかには検証が必要な点も残る。8月初の金融市場の不安定化は変動幅で見る限り大きかった一方、金融システムや実体経済の安定を損なうほど深刻かどうかについては、当時から様々な見方もあったからである。
すべては結果論であり、中央銀行が金融と経済の安定維持に慎重さを保つことは不可欠だが、金融政策の正常化という基本方針をうまく守ることは不可能であったかという問いはありうる。
日銀に限らず主要国の中央銀行の経験を踏まえると、金融政策とは切り離した形で、臨時に潤沢な流動性供給を行う用意があるとの姿勢を示すといった選択肢もあったのかもしれない。
利上げの慎重論への対応
日銀が政策金利の緩やかな引上げを通じた金融緩和の修正という方針に回帰することは、国内経済のファンダメンタルズに照らして合理的である。実際、日銀が公表した経済と物価の見通しの基本シナリオは金融市場との間で概ね共有されているように見える。
もっとも、植田総裁が認めたように基本シナリオには様々な不確実性が存在する点を除いても、緩やかな利上げという穏健な戦略に対する慎重論は残存しうる。
つまり、国内経済では、政策金利が低位な現段階でも倒産や廃業は増加しつつあるほか、日銀の金融システムレポートが示唆するように財務面で脆弱な構造をもつ中小企業が存在するとみられる。こうした状況で利上げを進めることは、政治的な反発を受けやすいだけでなく、中小企業の収益を一層圧迫することで賃上げの持続性を阻害する恐れも否定できない。
それでも金融政策の正常化を粛々と進めるべき理由は、主として以下の二つに整理される。
第一に、現在の利上げは経済や物価の動向に即した金融緩和の度合いの調整であり、金融引締めではないことだ。植田総裁が記者会見で説明したように、物価の基調やインフレ期待の改善に即して利上げを行うことは合理的である。
第二に、日本経済が外的ショックに脆弱である点だ。リーマンショックやコロナショックでは震源地でない日本のGDPが大きく落ち込み、回復に長期間を要したことだ。理由は、日銀の多角的レビューで明らかになろうが、金融・財政政策の発動余地が限られていたことと関係している可能性は強い。
そこで問題は、こうした理解を企業や家計、金融市場と共有するのは難しいことだ。前者は、中立金利やインフレ期待という、推計に大きな幅があるだけでなく解釈の難しい概念を参照せざるを得ない。後者は、メリットが実現するのは先の話で、足元ではむしろ利上げのコストが先行する。
加えて、現在は国内の政治情勢が流動化しており、来年の参議院選挙に向けても、成長促進型の経済政策への要請が強まるとの見方がある。そうなれば、利上げの継続に関する政治的な摩擦の可能性も考えておく必要もあろう。
それでも金融政策の正常化戦略を維持するためには、丁寧な説明という「王道」に加えて、利上げによって影響を受ける部門に対する支援策を合わせて講じることも選択肢となりうる。
具体的には、ビジネスモデルや業種の転換を図る中小企業に対して貸出を行う銀行に対して、政策金利よりも低利での資金供給を行うといった措置が考えられる。
筆者も、中央銀行が平時からミクロ的な政策手段を活用すべきでないという原則論に同意するが、25年振りの貴重な機会を活かすとすれば、金融政策の正常化という基本方針を守るための現実解として、利上げ以外の面で柔軟性を備えておくことの意味も小さくないと思われる。
多角的レビューの活用
植田総裁は、かねて進めてきた金融政策の多角的レビューの成果について、12月の決定会合で議論した上で結果を公表する予定であると説明した。
レビューの対象期間を踏まえると、政策運営との関係で最も重要かつ難しいテーマは非伝統的政策の評価である。その理由は技術的には、終了してから日が浅いからだけでなく、依然として経済行動に影響を及ぼし続けていることにあろう。しかし、より大きな理由は日銀の説明が時間的な非整合性を生ずる恐れもある点だ。
それでも、多くの実務家が感じているように、非伝統的政策は局面によって有用であっても、常態化すべき手段ではないという理解を示すことは望ましい。そうした理解を共有することも、金融政策の正常化の合理性を支えることにつながりうる。
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