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奇妙な健康診断

「血圧は昨年から5%改善しました。順調ですね。」あなたは健康診断を終え、医師からこう告げられる。医師の診断はさらに続く。「LDLコレステロールは7%の改善で、中性脂肪は2%の改善。とても順調ですね。項目は以上となります。お疲れ様でした。」

どうにも奇妙な健康診断である。そもそも、血圧の値は、コレステロールの値は、いくつなのか。値の正常な範囲だってうろ覚えだ。他の値はどうなっている。血糖値は。肝機能は。問い質したいことは山ほどある。
もちろん、実際の健康診断はこうした疑問に答えるものだ。健康に必要な項目はすべて測定され、測定項目ごとに値が正常な範囲にあるか、診断してもらえる。さらに正常な範囲を大きく逸脱している場合、精密検査や入院に進むことになる。

「わが社の温室効果ガス排出量は、昨年度比3%減となりました。」舞台は変わり、あなたは一流の投資家だ。IRミーティングでとある大企業のサステナビリティ担当課長から、説明を受けている。課長は調子良く続ける。「また、取水量は10%の大幅減、女性管理職比率は4%の上昇となりました。いずれも順調に推移しております。以上がESG指標の進捗共有となります。」

もし健康診断の小話がなかったら、何の違和感も覚えないだろう。何なら今のサステナビリティの世界ではこの報告は模範的とすら言えるかもしれない。しかし、改めて考えてみると奇妙ではないだろうか。大事なのは温室効果ガス排出削減が進んでいるか、ではなく、例えば2050年カーボンニュートラルに間に合うのか、間に合わないのか、ではないのか。取水量の削減は、確かに水資源保全にポジティブな取り組みなのだが、操業エリアの水資源賦存量の豊かさによって、取水量は従来通りで問題ないかもしれないし、急いで90%削減しないといけないかもしれない。そもそも、地域によって水資源の状況は異なるのだから、操業エリア全ての総取水量を開示することに何の意味もない。女性管理職比率についても、何%を最終目標とすべきなのだろうか。そして最終目標まで急いだ方がいいのか、ゆっくりでもいいのか。見るべき指標は他にないのか。こうしたことを議論せず、奇妙な診断を垂れ流し続けることに、果たして何の意味があるのだろう。

図1 奇妙な診断

出所)NRI作成

さらに、あなたが投資家の中で、ユニバーサル・オーナーと呼ばれる投資家であれば、こうした問題意識はより切実なものになるだろう。ユニバーサル・オーナーとは、巨額の資産を持ち、世界中の様々な資産に長期分散投資を行う投資家のことを指し、例えば、巨大な公的年金基金が該当する。ユニバーサル・オーナーは、疑似的に丸ごと経済・市場を保有しているので、銘柄を入れ替えてもシステミックリスクからは逃れられない。システミックリスクとは、実体経済および金融システムを根本的に棄損するような、気候変動や感染症、格差といったリスクのことであり、ユニバーサル・オーナーは、各企業の活動が持続可能なのかに加えて、取り組みの総和としてシステミックリスクを低減出来ているのか、つまり環境や社会の持続可能性を担保できているのか、を見ており、これが彼らの収益源β(ベータ)を左右する重要なファクターなのである

「極端なケースを考えれば、世界中の全ての企業が、前年比で良い実績を上げ、ESGの最高評価を得たとしても、それだけで私たちの暮らしと環境の持続可能性が確保されるとは限らない」国連社会開発研究所 上級研究コーディネーター Ilcheong Yi(NRI仮訳)

理にかなったESG診断

このような問題意識から、国連社会開発研究所(UNRISD)は理にかなったESGの診断方法として、SDPI(Sustainable Development Performance Indicator)を開発した。ここではSDPIの特徴を端的に表しているものとして、ウィーン証券取引所の採用事例を紹介したい。ウィーン証券取引所のウェブサイトには上場企業の各種情報が掲載されており、そのうちプライム市場上場企業について、あくまで簡易的なものではあるが、SDPIを活用したサステナビリティ情報が掲載されている。下の図2はとあるプライム企業のサステナビリティページだ。

図2 理にかなったESG診断

出所)Wiener Börse AG (ウィーン証券取引所)HPより

偶然か必然か、健康診断のチャートと極めて似ていることに気づくだろう。ウィーン証券取引所の取り組みでは、気候、社会、ジェンダーから成る3つのテーマを対象としている。例えば、社会テーマの「差別およびハラスメント防止(Anti-Discrimination)」は持続可能、「従業員離職率(Employee Turnover Rate)」は概ね持続可能、「労働協約による労働者保護(Collective Agreements)」と「CEO報酬の従業員給与中央値に対する倍率(CEO Pay Ratio)」は持続可能ではない、と判断され、持続可能である指標ほど外縁に、持続可能でない指標ほど中心にポイントされた、レーダーチャートとして視覚化されている。

ここで言う持続可能かどうか、とは、企業活動が、地球や社会の観点からみて持続可能なものとなっているか、ということであり、SDPIの中核を成す概念である。従来のESG指標では、各サステナビリティ・テーマに関する企業活動が前年度と比較してどれぐらい進捗したか、が主に重視され、例え、指標を増やしても、取り組みを加速しても、個別企業の持続可能性が高まり得るということにしかならなかった。詳細は割愛するが、SDPIはこうしたミクロな企業活動を、地球や社会といったマクロな持続可能性の水準(正常な範囲)と紐づけて評価することで、その企業は地球や社会の持続可能性に見合った活動が出来ているのか、という理にかなった診断を下すものとなっている。さらに、SDPIが世界的に普及していくと、システム全体が持続可能な水準に近づいたのか、到達したのか、ということまで診断出来るようになる。

実は、サステナビリティの取り組みが本当に持続可能な水準にあるのか、という視点はSDPIに特有のものではない。地球温暖化対策の領域では、他のテーマに先んじて、持続可能な地球を実現する水準として1.5℃目標を掲げ、SBTi(Science Based Targets initiative)を通じ、登録企業の排出削減ペースが1.5℃目標水準に整合するか、まず目標値に焦点を当てて測り始めている。また、自然資本の領域でもSBTN(Science Based Targets Network)を通じ、淡水や土地、海洋の一部について、自然版SBTiとも言える活動を進めている

SDPIはこうしたサステナビリティの将来の潮流とも整合するものであり、決して荒唐無稽な絵空事ではない。さらに、現時点で測定が容易かといった制約に縛られず、真に環境や社会を持続可能なものとするためにどのような指標群が必要なのかという視点から全体像を構想したもので、まさにポストESG指標の青写真と言えるだろう。

健康診断型ポストESG指標の社会実装

そして、SDPIの社会実装に向けた動きは既に始まっている。

先ほど紹介したように、ヨーロッパではウィーン証券取引所において実験的なSDPIの採用が始まっており、今後投資家からの反応を踏まえた拡充や、他の証券取引所による採用に繋がる可能性がある。

さらに、アジアでは隣国、韓国で先行して様々な取り組みが始まっている。

ハンギョレ経済社会研究所は2023年、SDPIの指標を参考に、テック5社(アップル、インテル、サムスン電子、SKハイニックス、TSMC)の簡易的なケーススタディを実施した。

特に5社のうちTSMCとインテルは、ESG評価で世界的に著名な評価機関MSCI(Morgan Stanley Capital International)から、それぞれAAAとAAという高い格付けを得ている先進企業である。しかし、この簡易SDPI評価では、5社とも持続可能性パフォーマンスは平均的と診断され、今のESG指標に基づく企業のサステナビリティ取り組みでは環境や社会の持続可能性に真に貢献出来ないのではないか、という懸念を浮き彫りにする結果となった。

さらに、2026年に入って、踏み込んだ取り組みが始まっている。7月2日にソウルで行われた国際観光フォーラムでは、Public Square社とUNRISDが共同で観光セクター向けSDPI指標(SDPI-Tourism)を開発中であることが発表された。観光セクターは、オーバーツーリズムによる地域社会へのダメージ、インフラ整備、観光業従事者の労働環境といった社会課題が凝縮したセクターであり、社会に関する持続可能性の水準をどう設定し、どう企業活動と紐づけて評価出来るのか、というサステナビリティの未開拓の領域に具体的に踏み込むものになるだろう。

近年、企業のサステナビリティの現場では、気候テーマに加えて、複雑な自然テーマの取り組みや開示が求められるようになり、サステナ疲れの声も多く聞かれる。確かに、自然テーマの開示に関する議論や動きは、実務負担を考慮しているとは言い難い側面もある。一方、ポストSDGsの策定を待たずして自然以外のテーマに焦点を広げるような動きも進んでおり、座して待つだけでは、やみくもに負担が増すばかりで、いずれ取り組みの本質を見失ってしまうだろう。

SDPIはこうしたサステナビリティの混乱に終止符を打つものになり得る。既に言及したようにSDPIは理にかなったアプローチでサステナビリティ指標の全体像を提示する構想であった。そのため、早くからSDPIを理解し取り組むことで、大局観を持って、自社のサステナビリティ取り組みの優先事項を認識することが出来るだろう。次から次へと押し寄せるサステナビリティ・テーマの波を乗りこなし、本質的なサステナビリティ経営を推進するため、今こそ理にかなったESG診断に注目してはどうだろうか。

  1. ジョン・ルコムニク、ジェームズ・P・ホーリー著、松岡真宏 監修・監訳、月沢李歌子 訳『「良い投資」とβアクティビズム MPT現代ポートフォリオ理論を超えて』日経BP 日本経済新聞出版、2022年
  2. The Hankyoreh “Analysis shows big 5 global IT firms have long way to go on sustainability”(2023年10月)
  3. United Nations Research Institute for Social Development ”Authentic Sustainability Assessment: A User Manual for the Sustainable Development Performance Indicators.” (2022年11月)
  4. Science Based Targets initiative “SBTi Corporate Net-Zero Standard, Version 1.3.1”(2026年4月)
  5. Science Based Targets Network HP “Who we are” “ https://sciencebasedtargetsnetwork.org/about/ ”(2026年8月10日時点)
  6. The Hankyoreh “Analysis shows big 5 global IT firms have long way to go on sustainability”(2023年10月)
  7. Taskforce on Inequality and Social-related Financial Disclosures (TISFD) “Launch of the TISFD Framework Beta Version 0.1”(2026年6月)

プロフィール

  • 磯谷 允亨のポートレート

    磯谷 允亨

    エネルギー産業コンサルティング部

    2023年、東京大学経済学部経営学科卒業。同年、野村総合研究所入社。
    入社以来、コンサルティング事業本部にてGX(グリーントランスフォーメーション)領域を中心に、戦略立案、ルール形成支援、新規事業立案等のコンサルティング業務に従事。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。