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はじめに

ECBの今回(3月)の政策理事会は、APPによる資産買入れの減速の前倒しを決定した。もっとも、ラガルド総裁は理事会の意見が分かれた点を認めたほか、利上げ開始の早期化に直結するものではないと説明した。

経済情勢の評価

ラガルド総裁は、ウクライナ侵攻がエネルギー価格の上昇、供給制約の悪化、センチメントの慎重化等を通じてユーロ圏経済に影響を与えるが、その大きさは極めて不透明であると認めた。一方で、実質GDPは既にコロナ前の水準を回復しており、コロナによる影響の減衰や供給制約の緩和の兆し、家計の超過貯蓄の取り崩しの展望といった好材料もあった点を確認した。

実際、執行部が改訂した2022~24年の実質GDP成長率見通しも、+3.7%→+2.8%→+1.6%となり、前回(12月)に比べて2022年が0.5ppの下方修正になったが、その後は概ね不変とされた。

記者会見では複数の記者がウクライナ支援やエネルギー対策に伴う財政支出の展望や寄与を取り上げた。ラガルド総裁も、こうした局面では財政による下支えが重要と指摘し、域内各国の対応だけでなくEUレベルでの対応にも期待を示すとともに、そうした動きが域内の経済統合の推進に寄与するとの考えを示した。なお、今後の財政支出に関しては、当然ながら今回の見通しには反映されていない点にも注意する必要がある。

物価情勢の評価

ラガルド総裁は、ウクライナ侵攻が少なくとも短期的にはインフレ圧力を高める点を確認し、主たる経路としてエネルギーと食品の一段の価格上昇を挙げた。加えて、既に労働市場が力強く拡大しているだけに、失業率の顕著な低下が賃金上昇に波及する可能性にも言及した。一方で、中期のインフレ期待の上昇は、インフレ目標と整合的な形に収斂しつつあるとむしろ歓迎した。

執行部が改訂した2022~24年のHICP総合インフレ率見通しも、+5.1%→+2.1%→+1.9%となり、前回(12月)に比べて2022年が1.9ppの大幅な上方修正となったほか、その後も各々0.3ppおよび0.1pp上方修正された。しかも、今回の執行部見通しは、先行きの不透明性を映じて2つのリスクシナリオ(adverseとsevere)が付記されているが、経済制裁の強化や供給制約の深刻化等を主因に、双方ともにインフレ率は当面に更に加速する姿が示唆されている(+5.9%→+2.0%→+1.6%および+7.1%→+2.7%→+1.9%)。

記者会見では複数の記者がエネルギー価格の見方を質した。ラガルド総裁は、上記のようにリスクシナリオではロシアからの輸入の減少等によるエネルギー価格高騰の長期化も考慮されているが、中心シナリオではインフレ率への寄与は徐々に減衰するとみている点を説明した。一方で、長い目でみれば賃金動向も重要であるとし、今後の動向を注視する考えを示した。

金融環境の評価

ラガルド総裁は、ウクライナ侵攻を機に資産価格の変動が大きくなっている点を認めつつ、安全資産の利回りは低下しており、ユーロ圏の銀行システムも自己資本や流動性の面で頑健性を維持していると説明した。また、記者会見で デギンドス 副総裁も、株価や社債のスプレッド、商品デリバティブなどのボラティリティは上昇しているが、2020年春とは異なり、市場流動性が維持されているとの理解を示したほか、ユーロ圏の銀行の対ロシアエクスポージャーが小さい点も確認した。

金融政策の運営

上記のように今回(3月)の会合はAPPによる資産買入れの減速の前倒しを決めた。具体的には、4月~6月にかけて400億ユーロ/月から200億ユーロ/月まで減速した後、7~9月については、①資産買入れを終了してもインフレ圧力が緩和しないとみられる場合は終了、②そうでない場合は期間と規模を再検討することとされた。

ラガルド総裁は、記者の質問に答える形で、理事会内には無条件にAPPを前倒しで終了すべきとの意見と、今回は現状維持を決定すべきとの意見があった点を認めた上で、執行部が両者の中間として条件付きの終了案を提示したことで合意を得たと説明した。

また、別な質問に対しては、今回の決定が12月や2月の会合の議論の延長線上にあるとも説明した。実際、以前の「ノート」で検討したように、2月会合では早期の終了を求める意見が大勢となっていた印象を受ける。

今回(3月)の会合が決定したもう一つの重要な点は、利上げの開始に関する説明の変更である。つまり、これまでは、資産買入れを利上げの直前(shortlybefore)まで続けるとしていたが、利上げは資産買入れ終了後のどこかの時期(sometimeafter)に開始し、緩やかなペースにすると変更した。

これらを踏まえて、複数の記者が金融政策の正常化を加速した理由を質したのに対し、ラガルド総裁は今回の決定は加速を意味するものではなく、柔軟性を加えたものであると反論した。

つまり、上記のようにAPPによる資産買入れも第3四半期以降も継続する可能性が残されているほか、利上げ開始についても、従来のように時間を意識した内容から、フォワードガイダンスの達成度合いに紐づけたものであると説明した。

しかし、上記のようなインフレ見通しを踏まえると、少なくとも現時点ではAPPが7~9月期に終了する可能性が相当に高いことは言うまでもない。加えて、利上げに関するフォワードガイダンスも実質的に満たされつつある中で、技術的にsometimeという条件を付しても、実際は速やかに利上げに移行する蓋然性も高い。

このほか、記者会見では十分に取り上げられなかったもう一つの論点として、金融安定への配慮がある。実際、声明文では、物価とともに金融安定に関するマンデートを達成するため、すべての政策手段を行使する要因がある点を指摘している。

上記のように、ラガルド総裁と デギンドス 副総裁は、現時点で金融上のストレスは抑制されているとの見方を示しているが、この点に関しても事態は流動的でありうる。なかでも、危機の度に問題となった域内国債の利回り格差の拡大は、各国政府が財政支出を拡大する可能性が高い中で焦点となりうる。ECBには、この問題が顕在化した場合に、金融政策の正常化とどのように折り合いをつけるかという問題も残っている。

 

プロフィール

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    井上 哲也

    金融デジタルビジネスリサーチ部

    シニアチーフリサーチャー

    

    内外金融市場の調査やこれに関わる政策の企画、邦銀国際部門のモニタリングなどを中心とする20年超に亘る中央銀行での執務経験と、国内外の当局や金融機関、研究機関、金融メディアに構築した人脈を活かして、中央銀行の政策対応(”central banking”)に関する議論に貢献。そのための場として「金融市場パネル」を運営し、議論の成果を内外の有識者と幅広く共有するほか、各種のメディアを通じた情報と意見の発信を行っている。2012年には、姉妹パネルとして「バンキングパネル」と「日中金融円卓会合」も立ち上げ、日本の経験を踏まえた商業銀行機能のあり方や中国への教訓といった領域へとカバレッジを広げている。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。