&N 未来創発ラボ

野村総合研究所と
今を語り、未来をみつめるメディア

はじめに

物価や金利を同時点での交換比率と位置付けるのでなく、異時点間の変化率として捉えると、経済事象が異なる意味合いを持つほか、政策の考え方にも新たな視野が生まれる。

変化率としての物価

物価の尺度として一般的に使用されるのはインフレ率、つまり財やサービスのバスケットの価格の上昇率であり、その意味では既に変化率として位置づけられている。しかし、低インフレ環境の下では、数年といった時間に物価水準は大きく変化しないので、物価を変化率として捉える意義は顕著に低下する。

一方で、企業や家計は、それぞれの知見や感覚に照らして物価の高低を認識することに合理性がある。企業は、一定の生産技術の下で収益を生むために、投入要素や産出物の価格の適切さを判断するはずである。家計も、収入や貯蓄の制約や余暇との相対的な選好の下で、効用を最大化するように、財やサービスの価格や賃金の適切さを判断するはずである。

これらの点を踏まえると、低インフレの下では家計や企業の意識は相対価格に集中しやすいという推論が導かれる。この点は、時間的な要素を捨象した交換のみによる一般均衡モデルで相対価格のみが役割を果たすことと整合的である。また、社会的には経済格差に関心が集まりやすい点と関係しているかもしれない。

その上で、物価を変化率として捉えた場合、最適なインフレ率はどのようなものかという問題が残る。

どんなに成長率が低く、低インフレであっても、企業の生産技術や家計の嗜好は変化するはずであり、結果として相対価格は変化し、マクロ的な効率性は達成されるが、財やサービスのバスケットの価格である物価は、企業や家計の支出パターンの変化(代替効果)のお陰でほとんど変化しないことはありうる。

また、企業や家計が将来の経済活動を計画する上では、文字通りの物価安定、つまりゼロインフレ率が最適であると考えることもできる。これに対し、既往の理論では、財やサービスの代表的なバスケットの設定やそれらの質的変化の推計に実務的な困難があることなどを挙げて、2%インフレを目標とすべきとの理解が共有されてきた。

ただし、インフレ率が安定的でありさえすれば、企業や家計は経済活動を適切に計画できるはずなので、目標は必ずしも2%でなくても良いと考えることもできる。安定的であってもインフレ率が高い場合のコストである"shoe leather cost"や"menu cost"も技術革新によって低下しつつある。また、相対価格の変化が認識しにくくなるという課題も同様に克服されつつある。

そこで、物価の変化率であるインフレ率の最適な姿はどのようなものかという問題は、資産価値の変化率である金利から考えてみることが有用になる。

変化率としての金利

資産価値の場合も、その尺度として一般的に使用されるのは金利(あるいは利回り)、つまり価値の増加率であり、物価と同様に既に変化率としての定義がなされている。しかし、低金利環境の下では、数年といった時間に資産価値は大きく変化しないので、物価を変化率として捉える意義は顕著に低下する。

筆者は、同僚がキャッシュレス決済に関して実施した大規模なアンケート調査で、単利と複利の違いを理解しない回答が多数に上がったことに強い印象を受けた。かく言う筆者も、かつて日銀の金融研究所に配属になった際に、大先輩から金利は価格でなく変化率であると理解するように言われたことを良く記憶している。

低金利環境では、家計や企業が相対的な資産価値に意識を向けやすくなり、この点で物価と同様な意味合いが生ずる。相対的な資産価値にそった資源配分がマクロ的な効率性に貢献しうることは物価と同様である。一方で、社会的には資産選好や保有による格差に関心が集まりやすい点とも関係しうる。

その上で、金利を変化率として捉えた場合に、最適な利率がどのようなものかという問題を考える上では、物価よりも理論的な基盤が揃っているように見える。

家計にとっては、財やサービスを現在消費するのか将来消費するのかという選択が重要であり、消費の限界代替率が適切な金利水準を導く。企業にとっては、生産設備に投資して将来の生産をどの程度増やすことができるかが重要であり、投資の限界収益率が適切な金利水準を導く。

これらをマクロ的に集計した貯蓄と投資が均衡する水準が自然利子率であることは言うまでもない。

近年、日本を含む先進国でマイナスの自然利子率の合理性が議論されている。確かに、投資の限界収益率がマイナスというのは、経済の期待成長率がいくら低下しても考えにくい一方、家計の将来所得に対する高い不確実性のために消費の限界代替率がマイナスになることも排除できないようにも見える。

マイナスかどうかに拘わらず自然利子率が低いとすれば、最適な政策金利(実質)も低下する。なぜなら、政策金利が過度に高ければ、経済のファンダメンタルズによる均衡水準以上の金利が金融市場で波及するので、経済活動を過度に抑制することになるからである。

物価と金利の関係

これらの検討を踏まえると、最適な金利水準から最適なインフレ率を考えることができる。

つまり、市場利子率(実質)が自然利子率の近傍で推移すれば、企業や家計の実質購買力はそのペースで成長する。だとすれば、最適なインフレ率の一つの考え方は、相対価格の変化や貨幣的なショックの影響を中立化して、実質価格の上昇率が実質購買力の成長率と均衡させるようにするものとなる。

もっとも、相対価格は家計の嗜好や企業の生産技術の変化を映じて変動しうる一方、最適なインフレ率を頻繁に推計し直すことは、インフレ期待の不安定化を通じて家計や企業の経済活動の計画を阻害し、マクロ的なコストも大きい。

従って、実務的には最適なインフレ率は中期的に一定の水準に維持することに合理性があるが、時にはファンダメンタルズの変化を踏まえた見直しを行うことにも合理性が生じうる。

プロフィール

  • 井上 哲也のポートレート

    井上 哲也

    金融デジタルビジネスリサーチ部

    シニアチーフリサーチャー

    

    内外金融市場の調査やこれに関わる政策の企画、邦銀国際部門のモニタリングなどを中心とする20年超に亘る中央銀行での執務経験と、国内外の当局や金融機関、研究機関、金融メディアに構築した人脈を活かして、中央銀行の政策対応(”central banking”)に関する議論に貢献。そのための場として「金融市場パネル」を運営し、議論の成果を内外の有識者と幅広く共有するほか、各種のメディアを通じた情報と意見の発信を行っている。2012年には、姉妹パネルとして「バンキングパネル」と「日中金融円卓会合」も立ち上げ、日本の経験を踏まえた商業銀行機能のあり方や中国への教訓といった領域へとカバレッジを広げている。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。