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はじめに

スイスではCPIインフレ率が約1%に減速し、今後の下方リスクも高まっている。スイス国立銀行(SNB)にとって、為替介入の活用か非伝統的政策の再開かという選択肢に直面する可能性が視野に入ってきた。

金融緩和とその背景

SNBは9月の理事会(四半期ごとに開催)で政策金利を25bp引下げ、1%とすることを決定した。記者会見の冒頭説明で、当時のジョルダン総裁は、前回(6月)理事会以降のスイスフランの増価によるインフレ圧力の顕著な減退が主たる理由と説明した。

貿易相手先の構成(対ユーロ圏の輸出シェアは約5割、輸入シェアは6割強)を踏まえると、スイスにとって重要なのは対ユーロ相場である。6月下旬には0.96付近にあったユーロ/フランレートは9月下旬には0.94台へとフラン高に推移していた。

しかも、SNBの声明文は、物価の下方リスクを踏まえると、中期的な物価安定を達成するために今後(coming quarters)も更なる利下げが必要となると説明し、利下げバイアスを明示した。

物価情勢と見通し

スイスのCPIインフレ率は、2023年初の3%台前半から減速を続け、 8月時点では1.1%にまで下落した。その上で注意すべき点は、国内物価と輸入物価とのインフレ率の大きな乖離である。

つまり、国内物価のインフレ率も2023年初の3%弱から減速してきたが、8月時点で2.0%であった。このうち、財が1.6%に対し、サービスは2.1%であり、家賃が4.0%も上昇していた。家賃を除く民間サービスは1.5%であっただけに、除く家賃の国内物価は1%台中盤と考えられる。

これに対し、輸入物価のインフレ率は2024年入り後にマイナスに転じ、8月には-1.9%に減速した。除く石油製品でも-1.5%と、スイスフランの増価の影響が示唆される。

SNBは、CPIインフレ率にへの輸入物価の寄与度を約-0.5%と推計しており、国内物価の寄与度が約1.5%で、合計約1%となっていることがわかる。また、SNBが示した基調的インフレ率の複数の推計も概ね1%強で横ばいとなっている。

これらを踏まえて9月理事会でSNBが改定した物価見通しは、政策金利が現状維持(1%)との仮定の下で、CPIインフレ率はさらに減速し、2025年と2026年の第四四半期には各々0.5%および0.7%になるとした。これは、前回(6月)に比べて各々0.6ppおよび0.3ppの下方修正であった。

SNBは下方修正の理由として、スイスフランの増価、原油価格の低下、国内電力料金の引下げ(2025年1月から)を挙げた。加えて、インフレの減速によって、既往の二次的効果(物価と賃金の循環)が弱まるとの見方も示している。

経済情勢と見通し

スイスの経済活動は足元でむしろ堅調であり、第2四半期の実質GDP成長率は2.0%(前期比年率)に達した。もっとも、SNBは、成長率の上昇は化学製品および薬品の輸出増による面が大きく、他の産業の活動は緩やかであったと評価している。

この間、国内では民間消費の伸び率が0.9%(同)に減速したほか、設備投資も-3.0%(同)と減少した。この結果、国内最終需要は-0.1%(同)と小幅ながらマイナスに転じ、純輸出の13.3%にも及ぶ大幅な増加が実質GDP成長率を押し上げたわけである。

この間、労働市場にも減速感も窺われる。フルタイムの雇用者数は、サービス業で増勢を維持したが、製造業や建設業で横ばいに転じた。失業率も、長い目で見て極めて低いが、2023年前半の2%付近から足元で2%台中盤へと漸増した。

その上で、SNBの声明文は、経済指標を踏まえると第3四半期の経済活動はやや軟化したとの見方を示したほか、今後も経済活動は緩やか(modest)に止まるとの見通しを示した。理由としては、フランの増価と海外経済の回復の緩やかさを挙げた。

SNBは実質GDP成長率の正式な見通しを公表しないが、声明文では、2024年に1%にまで減速したあと、2025年には1.5%と2023年と同水準まで回復するとの見方を示した。しかし、SNBもこうした見通しに不確実性がある点も認めており、最大の要因として海外経済の動向を挙げている。

金融政策の今後の運営

物価見通しがこれだけ低下すると、SNBによる物価目標-CPIインフレ率を2%未満に抑制しつつ、景気循環に伴う変動は許容する-に照らしても、今後も更なる利下げを行う可能性は高い。

具体的には、SNBと金融市場(OISやサーベイ)がともに予想するように、2025年中に政策金利が0.5%で底打ちすることがメインシナリオだが、海外経済全体の回復度合いとともに、ECBの政策運営に大きく左右される。つまり、ユーロ圏の景気と物価の停滞が長期化しECBの利下げが続けば、スイスフランの一段の増価を通じて、スイスのインフレへの下押し圧力も一層強まりうる。

一方で、国内物価のインフレ基調はSNBの物価目標とむしろ整合的である点は、利下げの継続に疑問を生じさせうる。加えて、住宅価格の上昇にはモメンタムの低下も窺われるが、10年物モーゲージ金利が2023年初の3%代前半から足元で2%近傍まで下落する中で、住宅貸出の増加率も本年入り後に底打ちし、 SNBの声明文も住宅市場に課題が残る点を認めている。

今後、CPIインフレ率が予想以上に減速した場合のSNBの選択肢は、0%まで利下げを続け、必要であれば非伝統的政策を再開するか、低インフレの主因である為替介入(フラン売り)を活発化させるかの二つである。前者に関しては、スイス国債の市場規模や流動性を考慮すると、マイナス金利が具体案となる。

SNBはかねてて為替介入を金融政策手段として活用する方針を明示しているほか、今回の声明文でも必要に応じて発動する考えを明記した。利下げのみに依存しない姿勢は、低インフレの原因との関係の強さだけでなく、国内物価の動向や住宅価格の懸念に照らして合理性がある。

もっとも、同国の過去の経験は為替介入の効果が時間的猶予の創出に過ぎなかったことも示している。SNBが、マイナス金利政策の過去の経験に基づく効果の分析や実施方法に関する検討を開始する時期は意外と遠くないことが考えられる。

プロフィール

  • 井上 哲也のポートレート

    井上 哲也

    金融デジタルビジネスリサーチ部

    シニアチーフリサーチャー

    

    内外金融市場の調査やこれに関わる政策の企画、邦銀国際部門のモニタリングなどを中心とする20年超に亘る中央銀行での執務経験と、国内外の当局や金融機関、研究機関、金融メディアに構築した人脈を活かして、中央銀行の政策対応(”central banking”)に関する議論に貢献。そのための場として「金融市場パネル」を運営し、議論の成果を内外の有識者と幅広く共有するほか、各種のメディアを通じた情報と意見の発信を行っている。2012年には、姉妹パネルとして「バンキングパネル」と「日中金融円卓会合」も立ち上げ、日本の経験を踏まえた商業銀行機能のあり方や中国への教訓といった領域へとカバレッジを広げている。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。