&N 未来創発ラボ

野村総合研究所と
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はじめに

本年初の休日と3連休を使って、日銀による「金融政策の多角的レビュー」(以下、レビュー)の本体と、関連論文(ワーキングペーパー等の合計38本)を何とか通読することができた。

計量分析の技術を十分に理解できなかった点もあり、筆者は改めて勉強が必要であることを痛感したが、昨年の半分強を病気治療で過ごしたことを考えると、良いキャッチアップの機会になったとも感じる。

関連する多くの論文が相互に成果や概念を参照していたことから明らかなように、このプロジェクトは、一定の標準化された視点によって経済や金融の問題を分析したという優れた特質を有している。この経験と成果は今後も継承されていくことが期待される。

日銀がこれだけの質と量を伴う分析を示した以上、双方向のコミュニケーションの観点から、民間ないし金融市場からも反応を示すことが必要である。筆者も、今年の様々なリサーチイベント等を通じてそうした議論に微力ながら貢献したいと考えている。

本コラムでは、このプロジェクトに関与された方々に敬意を表しつつ、備忘録の意味も含めて現時点での印象を整理したい。

構造パラメーターへの働きかけ

「レビュー」の焦点の一つは、インフレ予想が長期にわたって低位に固着したことの背景やその意味合いであり、関連論文の多くが、マクロ経済や企業の競争環境などに着目した分析を行っている。

これらの分析を読むと、QQEが目指したものは、インフレ予想の形成のあり方自体を変えようとしたこと、計量モデルでいえば構造パラメーターを変えようとしたことだと改めて思い知らされる。

黒田前総裁は、特に当初は、「デフレ均衡」からの脱出の必要性を強調した一方、QQEの期間には(外的ショックによる影響を除けば)経済成長率は潜在成長率対比で概ね良好であった。従って、インフレ予想を需給ギャップの引締り以上に引上げるには、均衡点が同じPhilips Curve上を移行するだけでなく、Curve自体が上方へシフトする必要があった。その実現には企業や家計の行動様式の変化、つまり構造パラメーターの変化が必要であった。

金融政策が経済主体の反応を変えうることは、1980年代のルーカス批判(Lucas Critique)の頃から理解されてきた。それでも、QQEは少なくとも導入時には、大規模な金融緩和に関するコミットメントによって、比較的短期間に構造パラメーターの変化を促すことを目指した点で、やはり「異次元」の発想であったと感じる。

この点に関しては、「レビュー」と関連論文の多くが、QQEを含む非伝統的政策の理論的なベースとしてクルーグマンの1998年の論考を参照していた点も興味深かった。

上記のようなQQEの目標がなかなか達成できず、コロナ後にようやく構造パラメーターの変化が実現したことが、クルーグマンのロジック自体(経済主体が将来の金融緩和効果を現在に先取りして行動する)に問題があったと考えるのか、それとも、クルーグマンの提唱した将来の政策に関する「約束」の仕方に工夫の余地があったのかは興味深い問題である。

筆者は後者の考えに近いが、それでは、どのような「約束」をすれば企業や家計が短期間のうちに行動様式を変化させたかという問題には適切な回答が思いつかない。例えば、QQEの導入時点で、「CPIインフレ率が4%に達しても金融緩和を維持する」と約束しても-事後的にそうなったが-当時の企業や家計が行動様式を変えたかと言えば、同意する人は少ないように思う。さらに言えば、「総括的検証」までのQQEが一定の期間に亘って強力な金融緩和を続け、その意味で「約束」を実績で示したにも関わらず、インフレ予想が目立った変化を見せなかった点にも注意する必要がある。

ただし、「レビュー」の多くの論文は、コロナ後の大きな供給ショックが生じる以前に、インフレ予想の改善が始まっていたことも示唆している。

多くの論文は、2013年~2019年を一つの時期として分析しており、それは、先に述べたように、金融経済の異なる事象を分析した論文相互間での関係づけや参照の点でアドバンテージとなっている。しかし、特にQQEの後半の局面に焦点を絞って、例えば労働参加率の飽和などの内生的な要因が企業や家計の行動様式にどのような影響を与えたのかを明らかにすることも、インフレ予想の変化の持続性を考える上でも重要と思われる。

Shadow rateの意味合い

「レビュー」の対象領域のうち、非伝統的金融政策の効果に関する論文の多くは、新たに推計したshadow rateを共通して使用したり、参照したりしつつ分析を行っている。

日銀は過去25年において多様な政策手段を講じてきただけに、これらの効果を標準化された視点や枠組みから分析する上でshadow rateの有用性は高いと思われる。それだけでなく、将来に非伝統的な政策手段を実施する場合にも、shadow rate自体、あるいは自然利子率ないし中立金利との相対関係を示すことで、金融政策のスタンスの説明にも資することが期待される。

もちろん、「レビュー」が認めるように、shadow rateの推計はグローバルにも発展途上であり、かつ計量モデルの設計に依存する面が大きいことは事実であろうが、各モデルの特徴を明示しつつレンジで開示することは、少なくとも金融市場との対話に資するように思われる。

その上で、改めて感じることは、政策効果をフォーマルに分析する上でのインプットは金利であるという事実である。実際、多くの分析はshadow rateの引下げが実体経済を下支えしたことを実証的に示している。

これに対し、マネーなどの量的指標を計量モデルに組込むのが技術的に難しいことは、筆者のような素人でも認識している。その上に、物価は長期的には貨幣的な事象であるとすれば、政策的にマネーを増やした場合の実体経済への効果は調整過程の期間に止まり、新たな均衡では物価や名目賃金の上昇のみが残るという問題が残る。

もちろん、結果として名目値だけが上昇してもインフレ予想の変化に繋がるのであれば、QQEの目標達成に資すると考えることはできる。また、「レビュー」の一部の論文やアンケートの結果が示唆するように、実質の経済変数が不変でも名目値が変動した方が、経済活動が活性化される面もあるだけに、上記のような「マネーの中立性」が長期的にも妥当しない可能性もある。

いうまでもなく、両者を整合的に理解する上でのカギは、価格や賃金の硬直性ないしその持続性にあり、議論はここで前節に戻ることになる。単純に考えると、価格や賃金が伸縮的になったとすれば、金融政策の効果は、実体経済に対しては以前より縮小する一方、物価や賃金に対しては以前より増加するという推論が得られる。それが正しいのか、筆者ももう少し考えてみたい。

マイナス金利政策の再評価

「レビュー」と関連論文は、マイナス金利政策(NIRP)に対して総じて肯定的な評価を与えている。

実際、これらの分析が示した政策効果、①短期金利自体の引下げ、②(フォワードガイダンスと一体での)将来の政策金利のパスに関する予想を通じた長期金利の引下げ、③これらに伴う投資家の投資対象のシフト、については異論が少ないと考えられる。

これに対し、「レビュー」と関連論文は、銀行業界を中心に批判の多かった副作用である金融仲介機能への影響についても、貸出量の増加や銀行部門の健全性の維持、過度なリスクテイクの抑制といったエビデンスをもとに、否定的な見方を示しているほか、 ECB等のケースでも同様な分析が多い点を示唆している。

副作用論のポイントは預金のゼロ金利制約にあり、実際に銀行の預貸利鞘は業態を問わず縮小した。さらに、上記の②や③の効果として、有価証券の運用利回りも低下したことは否定できない。ただし、NIRPだけを実施していた期間は短く、その後にYCCも導入したので、NIRPだけによる②や③の効果の識別は難しい。

また、NIRPの導入当時と現在を比較した場合、銀行の経営環境にはいくつかの変化も生じている。

第一に、インターネットバンキングやモバイルバンキングの浸透によって、預金調達にかかる管理コストは低下している。第二に、銀行はリテールビジネスでも様々な手数料を明示的に導入したり、引上げたりしている。例えば、百万円の普通預金を有する人も、月に1~2回ATMで現金を引出し、毎回数百円の手数料を払えば、実質的な利回りはマイナスになる。ちなみに、この点は現金のコンビニエンスイールドとも関係している。

銀行のビジネスモデルによって副作用の軽減がある程度可能になったとすれば、将来に非伝統的な金融政策が必要になった場合の選択肢として、NIRPの意義が再評価されることが考えられる。

イールドカーブを引下げるという目的の点では、NIRPは、大規模な国債買入れやYCCに比べて、市場機能の毀損という副作用が少ない点にメリットがある。しかも、NIRPとフォワードガイダンスの組み合わせでは、イールドカーブのうちで中期ゾーンまでに主たる効果が生じる点で、QQEで問題になったような長期ないし超長期ゾーンの金利引下げに伴う副作用も抑制しうる。

その上で残された課題もいくつか存在する。

第一に、前回のNIRP導入時のように、企業や家計が過剰にネガティブな反応を示すリスクである。この点は、コミュニケーションポリシーの領域に属するが、前回の経験がトラウマになっている可能性には注意する必要がある。

第二に、イールドカーブが何らかの理由によるタームプレミアムの増加によって上昇している場合には、NIRPだけではその是正は難しいことである。この場合は、少なくとも国債買入れのような直接的な手段が必要になる。

第三に、より難しい課題ではあるが、NIRPが長期にわたって維持されるとの期待を生じないようにする必要がある点である。

先にみたNIRPの政策効果と矛盾するように聞こえるかもしれないが、NIRPの政策効果があまりにも強いと、低金利環境の長期化という思惑を通じて、折角変化し始めた企業や家計の行動様式が元に戻ってしまう恐れがある。少なくとも、NIRPの解除条件を事前に明確化することが不可欠である。

非伝統的金融政策の波及効果

「レビュー」のもう一つの焦点は、前節で取り上げたNIRPを含めて、この間に実施した非伝統的金融政策の波及効果である。

この点に関して興味深いのは、構造モデルと時系列モデルの双方の計量分析の結果として、需給ギャップに対する効果の点では、株価や為替レートを通じた政策の波及が半分強を占めていたとする結果である。

この点は、企業による直接投資を含む外貨建て資産の保有の増加や、活発化する企業のM&Aに対する株価の意味合い、株式投資のすそ野の広がり等を踏まえると説得的であり、「レビュー」も日本が米国の構造に近づいた可能性を示唆している。

ただし、そうだとしても、日銀にとっては非伝統的な金融政策の有効性が高まるというメリットだけが生じる訳ではない。

政策金利の変更が資金調達コストを通じて設備投資や消費に影響する波及経路については、理論的な枠組みも頑健で、計量的に安定した推計を導くことができる。これに対し、株価や為替レートを通じた波及経路は、関連論文が指摘しているように仮説が併存している上に、状態依存性が高いという問題が残る。

このため、非伝統的な金融政策を実施する場合、株価や為替レートを通じた効果をどの程度考慮すべきかには先験的な回答がないだけでなく、過去の経験則も通じにくいことになる。

因みに米国での波及メカニズムを考えると、米ドルは基軸通貨であるので、国内の需給ギャップに為替レートを通じた波及が大きな影響を及ぼすとは考えにくい。これに対し、株式だけでなくクレジット市場を含む金融市場は大きな波及効果を持っていると推察される。その理由の一つは、金融市場を通じた金融仲介のウエイトが大きいからである。

日本は、ストックの意味では銀行経由の金融仲介がなお支配的だが、景気ないし金利感応度の高い経済活動が金融市場を経由した資金調達に依存するようになったという意味で、政策の波及効果としての影響度を高めている可能性がある。この点は、金融市場側からも分析を行う必要があろう。

より厄介なのは為替レートである。この問題に対応する上では、為替レートの予測自体は困難としても、為替レートが変化した場合の経済や物価への影響はある程度推計できるだけに、この点について日銀と金融市場が理解を共有することが第一歩であるように思われる。

その上で、実際の物価変動のうちで為替レートの影響を除いた「基調」についても理解を共有することが望ましいが、「レビュー」が示唆するように、為替レートは間接的な経路を通じても物価に影響を与えうるだけに単純ではない。そうしたメカニズムは主としてどのようなものか、当面の経済構造を前提にした場合にどのメカニズムが重要なのかを明らかにすることも、日銀と金融市場にとって共通の課題となっている。

プロフィール

  • 井上 哲也のポートレート

    井上 哲也

    金融デジタルビジネスリサーチ部

    シニアチーフリサーチャー

    

    内外金融市場の調査やこれに関わる政策の企画、邦銀国際部門のモニタリングなどを中心とする20年超に亘る中央銀行での執務経験と、国内外の当局や金融機関、研究機関、金融メディアに構築した人脈を活かして、中央銀行の政策対応(”central banking”)に関する議論に貢献。そのための場として「金融市場パネル」を運営し、議論の成果を内外の有識者と幅広く共有するほか、各種のメディアを通じた情報と意見の発信を行っている。2012年には、姉妹パネルとして「バンキングパネル」と「日中金融円卓会合」も立ち上げ、日本の経験を踏まえた商業銀行機能のあり方や中国への教訓といった領域へとカバレッジを広げている。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。