はじめに
中立金利は、潜在成長率近傍での経済成長と、物価目標近傍でのインフレ率に対応する政策金利の水準として、金融政策の緩和度合いを判断する上で有用な概念である。ただし、実際の政策運営に活用する上では、正確かつタイムリーな推計が困難であるという以前に、いくつかの課題がある。
インフレ期待の動向
政策金利が名目値で設定される以上、中立的な政策金利も名目値で表示される。しかし、経済成長を規定するのは実質値である以上、中立的な政策金利は、概念的には潜在成長率近傍での経済成長に対応する実質利子率、つまり自然利子率の推計からスタートする。
自然利子率は、貯蓄投資バランスだけでなく、潜在成長率を左右する生産性や労働需給など、多様な要素によって変化しうる。実際、コロナ禍以降には先進諸国でこうした構造的な要素が変化した可能性が指摘され、自然利子率の推計はより困難になった。
ただし、より長い目でみれば、実体経済の構造変化は時間をかけて進捗する筋合いにあり、自然利子率が短期間に上下方向に大きく変動する蓋然性は大きくないと考えることもできる。
これに対し、自然利子率を名目値である中立的な政策金利に変換するには、単純に言えばインフレ期待を加える必要がある。このインフレ期待は、自然利子率が潜在成長率のような中長期の概念である以上、中長期の期待とすることが整合的である。
中長期のインフレ期待も、通常であれば、自然利子率や潜在成長率と同じく、短期的には安定していることが多い。しかし、現在の日本では、日銀の「展望レポート」も示唆するように、中長期のインフレ期待が上昇し始めている可能性がある。
つまり、自然利子率が不変であっても、インフレ期待の上昇によって中立的な政策金利が上昇しているとすれば、中立的な政策金利がいわば「逃げ水」となり、日銀が政策金利を引上げても、金融緩和の度合いを調整できない恐れが生ずる。
その一方で、日銀の「展望レポート」が当面は潜在成長率を上回る経済成長を見込んでいることは、名目の政策金利を緩やかに引上げても、金融緩和の度合いは大きく変化せず、従って景気を下支えするという意味で整合的になっているともいえる。
これらの議論が正しい場合、実体経済の面では何らの支障も生じないように見える。しかし、実際にはいくつか問題が残っている。
第一に、自然利子率の下でのインフレ率がインフレ目標を上回る可能性である。この点は、中長期のインフレ期待が上昇した結果、フィリップスカーブが上方にシフトしたと考えればよい。こうした状況が持続的になると、最終的には、インフレ目標の妥当性に疑問が生ずることにも繋がりかねない。
第二に、名目の政策金利を引上げても、景気後退に対する「のりしろ」を十分確保できない可能性である。もちろん、この点は中長期のインフレ期待の推移に依存する。
例えば、景気後退の下でもインフレ期待が維持されれば、名目の政策金利の引下げによって、金融緩和を一層強めることはできる。しかし、インフレ期待も減退した場合は、中立的な政策金利が上記とは逆な意味で「逃げ水」となり、名目の政策金利を引下げても、意図した程度の金融緩和が実現できないことになる。
自然利子率は、貯蓄投資バランスだけでなく、潜在成長率を左右する生産性や労働需給など、多様な要素によって変化しうる。実際、コロナ禍以降には先進諸国でこうした構造的な要素が変化した可能性が指摘され、自然利子率の推計はより困難になった。
ただし、より長い目でみれば、実体経済の構造変化は時間をかけて進捗する筋合いにあり、自然利子率が短期間に上下方向に大きく変動する蓋然性は大きくないと考えることもできる。
これに対し、自然利子率を名目値である中立的な政策金利に変換するには、単純に言えばインフレ期待を加える必要がある。このインフレ期待は、自然利子率が潜在成長率のような中長期の概念である以上、中長期の期待とすることが整合的である。
中長期のインフレ期待も、通常であれば、自然利子率や潜在成長率と同じく、短期的には安定していることが多い。しかし、現在の日本では、日銀の「展望レポート」も示唆するように、中長期のインフレ期待が上昇し始めている可能性がある。
つまり、自然利子率が不変であっても、インフレ期待の上昇によって中立的な政策金利が上昇しているとすれば、中立的な政策金利がいわば「逃げ水」となり、日銀が政策金利を引上げても、金融緩和の度合いを調整できない恐れが生ずる。
その一方で、日銀の「展望レポート」が当面は潜在成長率を上回る経済成長を見込んでいることは、名目の政策金利を緩やかに引上げても、金融緩和の度合いは大きく変化せず、従って景気を下支えするという意味で整合的になっているともいえる。
これらの議論が正しい場合、実体経済の面では何らの支障も生じないように見える。しかし、実際にはいくつか問題が残っている。
第一に、自然利子率の下でのインフレ率がインフレ目標を上回る可能性である。この点は、中長期のインフレ期待が上昇した結果、フィリップスカーブが上方にシフトしたと考えればよい。こうした状況が持続的になると、最終的には、インフレ目標の妥当性に疑問が生ずることにも繋がりかねない。
第二に、名目の政策金利を引上げても、景気後退に対する「のりしろ」を十分確保できない可能性である。もちろん、この点は中長期のインフレ期待の推移に依存する。
例えば、景気後退の下でもインフレ期待が維持されれば、名目の政策金利の引下げによって、金融緩和を一層強めることはできる。しかし、インフレ期待も減退した場合は、中立的な政策金利が上記とは逆な意味で「逃げ水」となり、名目の政策金利を引下げても、意図した程度の金融緩和が実現できないことになる。
利上げのロジック
前節でみたように、日銀による名目の政策金利の緩やかな引上げも、結果的には金融緩和の度合いを一定に維持しているに過ぎず、しかも、インフレが目標を持続的に上振れるリスクがあるとすれば、どのような政策対応が考えられるだろうか。
もっとも単純には、中長期のインフレ期待の上昇を上回るペースで名目の政策金利を引上げることで、実質の政策金利の面から金融緩和の度合いを抑制することが選択肢となる。
しかし、日銀の「展望レポート」が示唆するように、金融緩和の度合いが維持された場合でも、経済成長率は潜在成長率をやや上回る程度に過ぎない。だとすれば、海外経済の不透明性を考慮に入れなくても、実質の政策金利が速いペースで上昇することは、実体経済との関係で容易ではないように見える。
そこで別な選択肢は、中長期のインフレ期待の上昇を抑制するためというロジックで利上げを行うことである。
実際、米欧の中央銀行は、コロナ禍後の高インフレに対して、原因の多くが供給側にあり、金融政策が直接的な影響を及ぼすことが困難であったにも関わらず、名目の政策金利を大幅に引き上げた。その際の説明は、物価安定へのコミットメントを行動で示すことが、インフレ期待の上昇を抑えるというものであった。
ただし、米欧の中央銀行によるポジティブな評価に関わらず、利上げが実際にインフレ期待の上昇を抑制したかどうかは必ずしも判然としない。原油等の商品価格の落ち着きや供給制約の緩和、労働需給の改善等によって実際のインフレ率が減速したことがインフレ期待の抑制に繋がった面も大きいように見える。
しかも、長らく低インフレを経験した日本では、日銀がインフレ期待を抑制する方向での物価安定へのコミットメントを強調しても、企業や家計が実感として受け止めるかどうかは不透明である。
もっとも単純には、中長期のインフレ期待の上昇を上回るペースで名目の政策金利を引上げることで、実質の政策金利の面から金融緩和の度合いを抑制することが選択肢となる。
しかし、日銀の「展望レポート」が示唆するように、金融緩和の度合いが維持された場合でも、経済成長率は潜在成長率をやや上回る程度に過ぎない。だとすれば、海外経済の不透明性を考慮に入れなくても、実質の政策金利が速いペースで上昇することは、実体経済との関係で容易ではないように見える。
そこで別な選択肢は、中長期のインフレ期待の上昇を抑制するためというロジックで利上げを行うことである。
実際、米欧の中央銀行は、コロナ禍後の高インフレに対して、原因の多くが供給側にあり、金融政策が直接的な影響を及ぼすことが困難であったにも関わらず、名目の政策金利を大幅に引き上げた。その際の説明は、物価安定へのコミットメントを行動で示すことが、インフレ期待の上昇を抑えるというものであった。
ただし、米欧の中央銀行によるポジティブな評価に関わらず、利上げが実際にインフレ期待の上昇を抑制したかどうかは必ずしも判然としない。原油等の商品価格の落ち着きや供給制約の緩和、労働需給の改善等によって実際のインフレ率が減速したことがインフレ期待の抑制に繋がった面も大きいように見える。
しかも、長らく低インフレを経験した日本では、日銀がインフレ期待を抑制する方向での物価安定へのコミットメントを強調しても、企業や家計が実感として受け止めるかどうかは不透明である。
インフレ期待のアンカー
日銀にとって、中長期のインフレ期待を物価目標近傍にアンカーさせることが重要とすれば、まずは、経済成長率を潜在成長率近傍に維持するように政策金利を調整することが前提となる。その意味では、名目値である中立金利ではなく、インフレ期待を引いた実質の政策金利について企業や家計、市場と理解を共有することが重要になる。
それでも何らかの要因でインフレ期待が不安定化した場合は、米欧のように「コミュニケーション手段」としての名目の政策金利の調整も有用かもしれないが、効果に限界がある点では、政府の経済政策からの支援も必要となる。
より重要なことは、中長期のインフレ期待がいずれの方向であれ持続的に変化する事態を避けることである。このためには、非伝統的政策であれ、強力な金融引締めであれ、手段を択ばず対応する必要があるというのが先進国に共通の経験と言える。
それでも何らかの要因でインフレ期待が不安定化した場合は、米欧のように「コミュニケーション手段」としての名目の政策金利の調整も有用かもしれないが、効果に限界がある点では、政府の経済政策からの支援も必要となる。
より重要なことは、中長期のインフレ期待がいずれの方向であれ持続的に変化する事態を避けることである。このためには、非伝統的政策であれ、強力な金融引締めであれ、手段を択ばず対応する必要があるというのが先進国に共通の経験と言える。
プロフィール
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井上 哲也のポートレート 井上 哲也
金融デジタルビジネスリサーチ部
シニアチーフリサーチャー
内外金融市場の調査やこれに関わる政策の企画、邦銀国際部門のモニタリングなどを中心とする20年超に亘る中央銀行での執務経験と、国内外の当局や金融機関、研究機関、金融メディアに構築した人脈を活かして、中央銀行の政策対応(”central banking”)に関する議論に貢献。そのための場として「金融市場パネル」を運営し、議論の成果を内外の有識者と幅広く共有するほか、各種のメディアを通じた情報と意見の発信を行っている。2012年には、姉妹パネルとして「バンキングパネル」と「日中金融円卓会合」も立ち上げ、日本の経験を踏まえた商業銀行機能のあり方や中国への教訓といった領域へとカバレッジを広げている。
※組織名、職名は現在と異なる場合があります。