はじめに
ドイツで次期政権を担うCDU/CSUとSPDは、3月4日、大規模な財政拡大策を公表した。その内容は健全財政主義に修正を伴うものであるほか、中央銀行であるブンデスバンクも月報論文を通じて独自策を発表するなど注目すべき展開となっている。本稿ではその経済的な意味合いに焦点を当てて、ブンデスバンク案に示された論点を参照しながら検討したい。
Debt brakeの見直し提案
ドイツの連邦政府と州政府の財政に関しては、同国の基本法(憲法に相当)の第109条第3項で、「原則として、借入れ以外の収入によって予算を均衡しなければならない」-いわゆるdebt brake-と規定されている。
この規定は 、 2009 年にMerkel 政権( 皮肉な こ とに当時もCDU/CSUとSPDとの連立)によって議決され、ブンデスバンクによれば、世界金融危機後の財政赤字の拡張に歯止めをかけることが目的であった。その後の経過措置を経て、2016年からは連邦政府、2020年からは州政府について各々完全に実施された。
ブンデスバンクは、この措置によって、①ドイツ政府の国債発行コストが相対的に抑制された、②(自然災害や異例な緊急事態に対する)免除条項の活用もあってコロナ禍対策の財政支出も円滑に実施できたとをpositiveに評価している。
もっとも、実際には、同じく基本法の第109条第3項によって、名目GDPの0.35%までの借入れは許容される(2024年の名目GDPは4.3兆ユーロなので、150億ユーロ分が許容される)。さらに、基本法の第115条は、一定の返済計画を条件としつつ、「基金」に対する支出をdebt brakeの対象外にしうると規定している。
しかし、2023年にドイツの憲法裁判所が複数年に亘る免除条項の適用を違法と判断したことで、財政支出の柔軟性、特に長期にわたる投資的支出の余地が低下することになった。
この点がドイツを取り巻く政治・経済情勢に照らして大きな制約になりうる点では、 次期政権とブンデスバンクの理解は概ね一致している。すなわち、ウクライナ情勢に対応するだけでなく、欧州全体の安全保障のために国防費の拡大が必要であるほか、ドイツの国際競争力の低下を防ぐための技術革新や、老朽化したインフラの改善のための公共投資の強化が必要との理解である。
従って、次期連立政権の案とブンデスバンクの提案はともに投資的支出の増加に焦点を置いている。すなわち、次期連立政権の案ではインフラ投資のための5000億ユーロの基金(期間10年)の設立を目指している。一方、ブンデスバンクの案は、政府債務の水準に関わらず(この点は後述する)、名目GDPの0.9%に相当する額を投資的支出に充当することを容認すべきとしている。
一方で、次期連立政権の案は、①名目GDPの1%までは国防費をdebt brakeの対象から除外する、②州政府にも一定の借入れを認めるという内容を含んでいる。
いずれの提案であっても、基本法の第109条第3項ないし第115条の改正が必要であり、そのためには連邦議会と連邦参議院の両院において2/3以上の賛成を得る必要があり、一般的にはハードルは高い。しかし、CDU/CSUとSPDは2月の連邦議会選挙後の新議席による議会が開始する前に、旧議席による議会を開催し、Grünenを引き込むことで改正案の成立は可能との見方を示しており、今週(3月10日の週)には可決される可能性がある。
この規定は 、 2009 年にMerkel 政権( 皮肉な こ とに当時もCDU/CSUとSPDとの連立)によって議決され、ブンデスバンクによれば、世界金融危機後の財政赤字の拡張に歯止めをかけることが目的であった。その後の経過措置を経て、2016年からは連邦政府、2020年からは州政府について各々完全に実施された。
ブンデスバンクは、この措置によって、①ドイツ政府の国債発行コストが相対的に抑制された、②(自然災害や異例な緊急事態に対する)免除条項の活用もあってコロナ禍対策の財政支出も円滑に実施できたとをpositiveに評価している。
もっとも、実際には、同じく基本法の第109条第3項によって、名目GDPの0.35%までの借入れは許容される(2024年の名目GDPは4.3兆ユーロなので、150億ユーロ分が許容される)。さらに、基本法の第115条は、一定の返済計画を条件としつつ、「基金」に対する支出をdebt brakeの対象外にしうると規定している。
しかし、2023年にドイツの憲法裁判所が複数年に亘る免除条項の適用を違法と判断したことで、財政支出の柔軟性、特に長期にわたる投資的支出の余地が低下することになった。
この点がドイツを取り巻く政治・経済情勢に照らして大きな制約になりうる点では、 次期政権とブンデスバンクの理解は概ね一致している。すなわち、ウクライナ情勢に対応するだけでなく、欧州全体の安全保障のために国防費の拡大が必要であるほか、ドイツの国際競争力の低下を防ぐための技術革新や、老朽化したインフラの改善のための公共投資の強化が必要との理解である。
従って、次期連立政権の案とブンデスバンクの提案はともに投資的支出の増加に焦点を置いている。すなわち、次期連立政権の案ではインフラ投資のための5000億ユーロの基金(期間10年)の設立を目指している。一方、ブンデスバンクの案は、政府債務の水準に関わらず(この点は後述する)、名目GDPの0.9%に相当する額を投資的支出に充当することを容認すべきとしている。
一方で、次期連立政権の案は、①名目GDPの1%までは国防費をdebt brakeの対象から除外する、②州政府にも一定の借入れを認めるという内容を含んでいる。
いずれの提案であっても、基本法の第109条第3項ないし第115条の改正が必要であり、そのためには連邦議会と連邦参議院の両院において2/3以上の賛成を得る必要があり、一般的にはハードルは高い。しかし、CDU/CSUとSPDは2月の連邦議会選挙後の新議席による議会が開始する前に、旧議席による議会を開催し、Grünenを引き込むことで改正案の成立は可能との見方を示しており、今週(3月10日の週)には可決される可能性がある。
財政運営の転換に伴う経済的意味合い
次期連立政権による財政拡大案の発表に欧州市場が大きく反応したのは、その規模の大きさによるとみられる。
実際、ブンデスバンクの案では2030年までの最大の借入れ増加額が約2200億ユーロだが、次期連立政権の案によれば同じ5年間に8000億~1兆ユーロもの借入れ増加に繋がりうる。これは、ドイツの名目GDP(2024年)の約2割に相当する。
こうしたドイツの財政拡張策には、トランプ政権による安全保障政策への対応という政治的な色彩が窺われる。しかし、経済的な意味合いに焦点を絞っても、ユーロ圏の景気を下押ししているドイツが明確な回復の兆しを見せれば、同国だけでなくユーロ圏全体にも波及効果を持ちうる。
同時に、投資的支出の増加に重点を置くことは、Draghi reportが掲げた欧州の産業競争力の強化を通じた経済成長率の底上げに資すると考えられる。
しかし、次期連立政権の案については、EUによる財政健全化ルールとの関係が明確でない点が懸念となりうる。
実はブンデスバンクの案はこの点に配慮している。具体的には、①前年ないし当面の間に政府債務が名目GDPの60%を超えない場合は、中央政府に名目GDPの1.4%までの借入れを容認する、②そうでない場合は中央政府の借入れ上限は名目GDPの0.9%とし、全て投資的支出に向ける、という内容になっている。
ブンデスバンクはEUによる財政健全化ルールを順守しつつ財政支出の拡大が可能と主張し、潜在成長率(実質)が現在と同じ0.4%で、名目GDP成長率が2.4%程度で推移すれば、政府債務のGDP比率を60%以下に維持しうるとの試算を示している。
ドイツが財政規律を維持してきたことがEU全体の財政健全性に対するアンカーとなってきたことは事実であり、次期連立政権の案もEUによるルールとの関係を明確にしないと、他国のモラルハザードを誘発し、金利の上昇を通じて、クラウディングアウト等により意図した政策効果を毀損する恐れがある。
また、ブンデスバンクが一般論として指摘したように、基金の活用を通じてdebt brakeの適用を回避する手法は、財政の透明性の観点で必ずしも望ましいとは言えない。
次期連立政権の財政拡大策には波及効果の面でも課題が残る。インフラ投資は企画、効果や副作用の評価、法令の整備、実施に至るまで時間的なラグが小さくない。また、国防費の多くが、米国からの装備品輸入に向けられた場合-通商摩擦への妥協策としてありうる選択肢である-にはドイツ国内への乗数効果が小さくなる。
このように、ドイツでの大規模な財政拡大には合理性があり、かつ長期的な効果を期待しうるが、効果の波及やタイミングには様々な不透明性が残っている。
実際、ブンデスバンクの案では2030年までの最大の借入れ増加額が約2200億ユーロだが、次期連立政権の案によれば同じ5年間に8000億~1兆ユーロもの借入れ増加に繋がりうる。これは、ドイツの名目GDP(2024年)の約2割に相当する。
こうしたドイツの財政拡張策には、トランプ政権による安全保障政策への対応という政治的な色彩が窺われる。しかし、経済的な意味合いに焦点を絞っても、ユーロ圏の景気を下押ししているドイツが明確な回復の兆しを見せれば、同国だけでなくユーロ圏全体にも波及効果を持ちうる。
同時に、投資的支出の増加に重点を置くことは、Draghi reportが掲げた欧州の産業競争力の強化を通じた経済成長率の底上げに資すると考えられる。
しかし、次期連立政権の案については、EUによる財政健全化ルールとの関係が明確でない点が懸念となりうる。
実はブンデスバンクの案はこの点に配慮している。具体的には、①前年ないし当面の間に政府債務が名目GDPの60%を超えない場合は、中央政府に名目GDPの1.4%までの借入れを容認する、②そうでない場合は中央政府の借入れ上限は名目GDPの0.9%とし、全て投資的支出に向ける、という内容になっている。
ブンデスバンクはEUによる財政健全化ルールを順守しつつ財政支出の拡大が可能と主張し、潜在成長率(実質)が現在と同じ0.4%で、名目GDP成長率が2.4%程度で推移すれば、政府債務のGDP比率を60%以下に維持しうるとの試算を示している。
ドイツが財政規律を維持してきたことがEU全体の財政健全性に対するアンカーとなってきたことは事実であり、次期連立政権の案もEUによるルールとの関係を明確にしないと、他国のモラルハザードを誘発し、金利の上昇を通じて、クラウディングアウト等により意図した政策効果を毀損する恐れがある。
また、ブンデスバンクが一般論として指摘したように、基金の活用を通じてdebt brakeの適用を回避する手法は、財政の透明性の観点で必ずしも望ましいとは言えない。
次期連立政権の財政拡大策には波及効果の面でも課題が残る。インフラ投資は企画、効果や副作用の評価、法令の整備、実施に至るまで時間的なラグが小さくない。また、国防費の多くが、米国からの装備品輸入に向けられた場合-通商摩擦への妥協策としてありうる選択肢である-にはドイツ国内への乗数効果が小さくなる。
このように、ドイツでの大規模な財政拡大には合理性があり、かつ長期的な効果を期待しうるが、効果の波及やタイミングには様々な不透明性が残っている。
プロフィール
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井上 哲也のポートレート 井上 哲也
金融デジタルビジネスリサーチ部
シニアチーフリサーチャー
内外金融市場の調査やこれに関わる政策の企画、邦銀国際部門のモニタリングなどを中心とする20年超に亘る中央銀行での執務経験と、国内外の当局や金融機関、研究機関、金融メディアに構築した人脈を活かして、中央銀行の政策対応(”central banking”)に関する議論に貢献。そのための場として「金融市場パネル」を運営し、議論の成果を内外の有識者と幅広く共有するほか、各種のメディアを通じた情報と意見の発信を行っている。2012年には、姉妹パネルとして「バンキングパネル」と「日中金融円卓会合」も立ち上げ、日本の経験を踏まえた商業銀行機能のあり方や中国への教訓といった領域へとカバレッジを広げている。
※組織名、職名は現在と異なる場合があります。