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はじめに

スイス国立銀行(SNB)は、6月の理事会で政策金利を0.25pp引下げ、0%とすることを決定した。その後に公表された金融政策報告等は、スイスに固有な要因も含めて、経済の先行きに関する不透明性の高さを指摘したほか、金融市場が既にマイナス金利の環境にある点を示唆した。

経済情勢の評価

政策決定後の記者会見では、まずテュディン理事が、第1四半期には世界経済が緩やかに成長したが、米国による関税引上げ前の駆込み輸出による効果が大きいと評価した。これに対し、今後は通商摩擦によって世界の輸出と米国内の消費が鈍化することがメインシナリオであると説明した。

スイス経済も、外需の減少とスイスフラン相場の上昇によって、第2四半期以降は停滞を見込むとした。今回(6月)改訂した実質GDP成長率の見通しは、2025年が1%、2026年が1~1.5%となり、前回(3月)は2025年が1~1.5%、2026年が1.5%とされていたのに比べて下方修正された。テュディン理事は、こうした見通しにも不透明性が高い点も確認した。

一方、金融政策報告には興味深い動きも示されている。

まず、第1四半期の経済活動が堅調であった点について、製造業では化学や薬品、サービス業では卸売の好調さが目立った点である。この間、輸出に加えて建設投資も拡大した一方、消費や設備投資は平均以下の伸びに止まった点を指摘した。

今後については多くのサーベイ調査が企業マインドの慎重化を示唆している点を確認した一方、マクロの需給ギャップは第1四半期にわずかにプラスに転じたが、製造業の設備稼働率は長期平均を明確に下回っている点を確認した。

同時に公表された企業ヒアリング(241社に4月15日から6月3日に実施)の結果も、①関税引上げの不透明性のため、顧客は非常に慎重化、②企業のマージンはスイスフラン相場の上昇もあって圧縮、③エンジニアリングや金属では欧州内(主として自動車関連)からの受注が減少の一方、医薬品は強気の見通し、④建設も低金利と住宅供給の不足のため需要増に直面、といった特徴を示唆している。

この間、労働市場について金融政策報告は、全体として雇用のが減速するとともに、失業率も若干上昇した点を指摘した一方、サービス業と建設業の雇用は底堅い点も指摘した。

物価情勢の評価

政策決定後の記者会見でシュレーゲル総裁は、5月のCPIインフレ率 -0.1%となるなど、足元でインフレ圧力が低下している点を確認した。今回(6月)改訂したCPIインフレ率の見通し(政策金利は0%で横這いと仮定)は、2025~27年にかけて0.2%→0.5%→0.7%となり、前回(3月)に比べて、各年が各々0.2pp、0.3pp、0.1pp下方修正された。

一方、金融政策報告にはより詳しい分析が示されている。

まず、3月時点(0.3%)に比べた5月のCPIインフレ率の減速(0.4pp)は輸入物価と国内物価の双方から同幅の寄与を受けている点である。このうち前者は、原油価格の下落に加えて、スイスフラン相場の上昇、後者は観光とレントの価格下落によるとしている。これらの結果、5月のコアCPIインフレ率は0.5%、SNBによる刈込平均でも0.7%まで減速したと説明した。

この間、短期のインフレ期待は、各種のサーベイ結果を参照しつつ、第1四半期に家計や金融市場で一段と低下したと説明した。一方、中長期のインフレ期待は、UBSによる市場向けの調査(3~5年)が1.2%、コンセンサスフォーキャスト(6~10年)も1.0%と概ね安定している。もっとも、企業ヒアリングの結果は、企業では短期と中長期のインフレ期待の双方が若干低下した可能性を示唆している。

なお、企業ヒアリングの結果によれば、企業は投入コストや労働コストの上昇を幾分か価格に転嫁する必要性を意識しているが、その実現性には限界があるとの見方も示唆している。

金融政策の運営

政策決定後の記者会見でシュレーゲル総裁は、今回の利下げがインフレ圧力低下に対応したものである点を説明した。また、政策金利がマイナス領域に近づいた(on the verge)点を認めた上で、マイナス金利政策は2015~22年の例外的な局面での物価安定に重要な手段であった一方、望ましくない副作用や多くの経済主体への影響を有することも意識していると説明した。

その上で、今回の利下げによって適切な金融環境を実現しうるとしつつ、インフレの先行きに対する不透明性は依然として極めて高いと指摘し、中期の物価安定の維持に必要な場合には金融政策を調整する方針も確認した。

一方、金融政策報告は、金融環境の興味深い動きを指摘した。

まず、10年国債の利回りが、4月以降に顕著に低下し、足元で0.32%となった点を指摘し、理由として、インフレ圧力の低下に加えて、安全資産としての需要の増大を挙げた。イールドカーブの全体も下方にシフトし、SNBが計量モデルによって推計した結果は、残存5年までがマイナス領域にあると示唆した。

また、スイスフランの相場も顕著に上昇しただけでなく、米ドルだけでなくユーロや日本円など多様な通貨に対して「全面高」であった点を指摘した。この結果、スイスフランのNEERは3月に比べて足元で4%下落したが、低インフレの影響によりREERの下落は抑制されている。

その上で、SNBが実は1週間物のリバースレポと短期証券(SNB Bill・期間1か月~1年)の発行によって超過準備を吸収している点も説明している。3月以降の平均残高は前者が870億フラン、後者が623億フランになっており、足元での当座預金全体の残高(約4500億フラン)に比べて相応の規模に達している。さらに、 SNBはO/Nのリバースレポも随時実施している。

金融緩和に関わらずSNBが資金吸収を行っているのは、短期金利への下落圧力が強く、政策目標付近に誘導することが困難であるためである。つまり、短期金融市場でも、既に事実上のマイナス金利の状態にあることを意味する。その理由を金融政策報告は明示していないが、上記のようにスイスに対する国際的な資金流入が影響している可能性は高い。

プロフィール

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    井上 哲也

    金融イノベーション研究部

    

    内外金融市場の調査やこれに関わる政策の企画、邦銀国際部門のモニタリングなどを中心とする20年超に亘る中央銀行での執務経験と、国内外の当局や金融機関、研究機関、金融メディアに構築した人脈を活かして、中央銀行の政策対応(”central banking”)に関する議論に貢献。そのための場として「金融市場パネル」を運営し、議論の成果を内外の有識者と幅広く共有するほか、各種のメディアを通じた情報と意見の発信を行っている。2012年には、姉妹パネルとして「バンキングパネル」と「日中金融円卓会合」も立ち上げ、日本の経験を踏まえた商業銀行機能のあり方や中国への教訓といった領域へとカバレッジを広げている。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。