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はじめに

Financial Times(FT)の電子版は、現地2月18日に、ECBのラガルド総裁が8年の任期満了(2027年10月)を待たず、早期に退任する可能性を報じた。

FTは2027年4月のフランス大統領選挙に出馬するためとの見方を示しており、欧州市場ではかねてこうした見方が散見されたことをふまえると、報道には一定の蓋然性があるように見える。そこで本コラムでは、本件に関するECBへの意味合いを検討する。

ラガルド氏の退任の理由

上記のように、FTはラガルド総裁が2027年4月の大統領選挙に出馬することを理由に挙げており、もしそうだとすれば、その準備のために実際の退任もかなり早期に行われることになる。

日米の感覚からすると、中央銀行総裁が退任後に政治の中心的役割を担うことには違和感があるかもしれない。

しかし、欧州で珍しい話ではない点は、ECBのドラギ前総裁(イタリア首相に就任)、BOEのカーニー元総裁(カナダ首相に就任)などから明らかである。また、ECBは中央銀行であるとともに、EUを支える国際機関でもあり、政治や行政との距離が相対的に近い。ラガルド氏も、フランスの経済・財政・産業相からIMFの専務理事を経てECBの総裁に就任した訳であり、記者会見で域内国の経済政策に踏み込んだ発言を行うなど、もともと政治意識の強さを窺わせる面があった。

ラガルド氏の退任が確定的でない中で、フランス大統領選への影響を考えることは時期尚早だ。その上で、FTは国民連合(私のような古い人間には旧称の「国民戦線」の方が分かりやすい)のルペン氏が世論の強い支持を受けていると指摘している。ラガルド氏の属する共和党(同じく旧称は「国民運動連合」でサルコジ前大統領が代表)が、反EUを掲げる国民連合に対抗したいと考えることにはもっともな面がある。

後任の人選

ECB総裁の人選は、形式的には欧州理事会の特定多数決(加盟国の55%以上かつ代表する国の人口比で65%)以上によって決定される(リスボン条約第16条)が、実質的には主要4か国(ドイツ、フランス、イタリア、スペイン)、なかでもドイツとフランスの意向に大きく依存するとの理解が強い。FTも、マクロン大統領とメルツ首相の協議に委ねられるとの見方を示唆している。

また、FTは、12月に実施したサーベイ結果をもとに、スペイン銀行のデコス前総裁、オランダ銀行のクノット総裁を有力候補として指摘するほか、ECBのシュナーベル理事やブンデスバンクのナーゲル総裁がECB総裁のポストに意欲を示していると報じている。

筆者は、ラガルド総裁が退任した場合の後任人事のポイントは、ドイツからの就任如何にあると考える 。ECBの歴代総裁はドイセンベルク氏(オランダ)、トリシェ氏(フランス)、ドラギ氏(イタリア)、ラガルド氏(フランス)の4名であり、ユーロ圏最大の経済を有するドイツが1人も輩出しないという奇妙な状況にある。因みに、副総裁もノワイエ氏(フランス)、パパデモス氏(ギリシャ) 、コンスタンシオ氏(ポルトガル)、デギンドス氏(スペイン)だ。

ドイツから総裁が就任するチャンスは、少なくとも初代と三代目の際には相応に存在したが、相対的な経済力の強いドイツがECBを主導することへの懸念や有力候補の辞退などによって実現しなかった印象がある。また、ECBにとっても、設立当初はブンデスバンクの金融政策やドイツマルクに対する信認の継承が重要な課題であったが、数々の危機を経た現在では、ECBも外部の威厳に頼ることなく信認を得る状況になっている。

それでも、今回はドイツから総裁を輩出することの意味は小さくない。かつてのように、ECBとブンデスバンクの意見が対立する量的緩和のような政策も今は必要ない。しかも、皮肉なことに、ユーロ圏におけるドイツの相対的な経済力も以前より低下しているほか、ドイツに関する候補者とされる方々が一方的にタカ派といった印象はなく、これらの点で域内国の懸念を受けるリスクは低下しているのではないか。欧州委員会の委員長もドイツ出身のフォン・デア・ライエン氏である点だけが課題となりうる。

なお、フランス銀行のビルロワドガロー総裁は、2026年6月に退任することを正式に発表している(2月9日)。今後は慈善事業に専念することを表明しており、ラガルド総裁もフランス出身である点を考えると、ECB総裁の後任人事に直接的な影響を与えることは考えにくい。

ただし、ビルロワドガロー総裁が、ECBの理事会による金融政策の判断で多数派を形成する上で、ラガルド総裁をサポートしてきた役割は大きいように思う。金融市場ではビルロワドガロー総裁がハト派との評価もみられるが、筆者は中立的であった印象を持っているほか、中立金利を巡る議論などで現実的な考えを示した印象もある。新議長に対して、誰がこうした役割を持つかも注目すべきポイントである。

ラガルド総裁後のECB

ラガルド総裁が退任し、仮にドイツ出身の総裁が就任しても、金融政策が直ちにタカ派化するといった事態は考えにくい。ユーロ圏のインフレ率は概ね2%目標の近傍にあり、金融政策は「good place」にある。今後についても、成長の回復とユーロ高のような硬軟双方の要因があり、一方的な引締めの必要性は存在しないからだ。

筆者にとって興味深いのは、ECBの役割や機能の見直しがあるかどうかという点である。ECBは一連の危機対策だけでなく、ラガルド総裁の意向もあって役割を拡大させてきた。その代表例は気候変動対策とデジタルユーロの導入、大手金融機関への監督である。

各々が欧州内で相応に支持され、これまで大きな人的資源を投入してきた以上、簡単に見直すことは困難であるとしても、FRBの新議長に指名されたウォーシュ氏が標榜する中央銀行の原点回帰的な考え方も参照しながら、ECBの新総裁がどのような考えを持つかが注目される。

機能の面では量的緩和の運営が焦点になる。ブンデスバンクは、伝統的に量的緩和に否定的な意見を有している。加えて、域内国ないしEUレベルでの防衛費の拡大等を通じて国債ないし国際機関債の発行が増加する下で、新総裁が長期金利の安定をどう考えるかという論点もある。その意味で、ECBの新総裁とFRBの新議長の課題には、興味深い共通性が感じられる。

プロフィール

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    井上 哲也

    金融イノベーション研究部

    

    内外金融市場の調査やこれに関わる政策の企画、邦銀国際部門のモニタリングなどを中心とする20年超に亘る中央銀行での執務経験と、国内外の当局や金融機関、研究機関、金融メディアに構築した人脈を活かして、中央銀行の政策対応(”central banking”)に関する議論に貢献。そのための場として「金融市場パネル」を運営し、議論の成果を内外の有識者と幅広く共有するほか、各種のメディアを通じた情報と意見の発信を行っている。2012年には、姉妹パネルとして「バンキングパネル」と「日中金融円卓会合」も立ち上げ、日本の経験を踏まえた商業銀行機能のあり方や中国への教訓といった領域へとカバレッジを広げている。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。