日銀7月会合は物価上振れリスクを一段と強調
一見、無風にみえたものの、筆者としては物価の上振れリスクが一段と強調された点に注目した。具体的には、同時に公表された「展望レポート」の「基本的見解」に「とくに、基調的な物価上昇率が2%の『物価安定の目標」を超えて上振れていくリスクが顕在化し、それがその後の経済に悪影響を及ぼすことがないよう、基調的な物価上昇率を2%程度の水準で安定させていくという観点が重要になる』との文言が追加されたほか、8月10日に公表された7月会合の『主な意見』でも、物価の上振れリスクへの言及が数多く見られた。
日銀がリスクとして具体的に挙げたのは、中東情勢、グローバルなAI関連需要、為替円安の3つである。日銀はこれまで物価上昇をもたらす力について、資源価格や輸入物価、円安などの「第一の力」と、賃金、サービス価格、需給バランスなどの「第二の力」に識別し、「第一の力」が「第二の力」に転換していくことを目指す政策運営を行ってきたが、ここへきて再び「第一の力」が強まるリスクを懸念し始めたようにみえる。
金融市場では次回9月会合での利上げが既に織り込まれている状況だが、3つの要因はいずれも外部要因であり、その持続性が不透明である上に、日銀にとってはuncontrollableであるため、日銀が利上げのロジックをどのように説明するかが注目される。「利上げをしない場合の円安リスク」は一つの理由になりうるが、これまでの半年に1回のペースから、3か月に1回という「利上げペースの加速」に踏み切ることになる以上、金融緩和度合の調整を急ぐ理由とはなにか、という点の説明が求められる。日銀の利上げロジックを理解することは、市場が利上げの最終到達点を探る上でも重要だ。
日本でもフォワード・ルッキングなインフレ期待が上昇
金融政策が働きかけうるのは要因①~③であるが、②について、足もとで消費者物価のコア指標はまちまちの動きとなっており、明確に物価上振れリスクが高まっているとは言いにくい。③需給ギャップも小幅にプラスを維持しているが、加速している様子は見られない。
他方、①インフレ期待は明確な上昇を続けている。つまり、素直に考えると、日銀が利上げをする際は「インフレ期待の上昇リスク」を根拠として挙げる可能性が高いと考えられる。しかしながら、筆者としては、金融政策の判断においては、インフレ期待の高低だけではなく、インフレ期待を動かした要因こそが重要だと考える。そこで本稿では、インフレ期待の「中身」について検討したい。
①インフレ期待は、一般に、②前期のインフレ率に代表されるような、これまでの経験に基づく「適合的な期待形成」と、①’それ以外で構成される。①’は純粋な将来の物価に対する期待=「フォワード・ルッキングな期待形成」と考えられている(注2)。フォワード・ルッキングな期待は、中央銀行による物価目標・金融政策に対する信認=アンカーや、内需要因に根差す将来の需要要因に対する期待、そして、コストショックに代表される将来の供給要因に対する期待で形成される。

ここで、家計や企業の①インフレ期待(中長期予想物価上昇率)を確認すると、長い目で見て②前期のインフレ率(CPI総合)の動きと概ね一致していることがわかる<図表2>。しかし、家計では2023年以降、実際の物価の推移に対して、インフレ期待が上振れて上昇を続けてきた。企業でも、家計対比緩やかながらインフレ期待の継続的な上昇が確認できる。すなわち、最近のインフレ期待の上昇は②適合的な期待形成よりも、①’フォワード・ルッキングな期待形成によってもたらされていることを示しているように見える。

フォワード・ルッキングな期待上昇の背景をどう捉えるか?
例えば、陣内ら(2021)は、インフレ期待の上昇の中身によって消費行動が変わりうることを明らかにしている(注4)。具体的には、食料品・エネルギー価格上昇を背景とするインフレ期待の上昇は消費の拡大を引き起こさない、また、賃金上昇期待をもたらさないことを示した。また、米国では、家計や専門家に様々なショックを示した上で、その影響として物価や失業率がどのようになるか予測させる実験が行われた(注5)。この結果、「供給ショック(原油価格上昇)」と「需要ショック(政府支出増加)」いずれのショックでもインフレ予想は上昇するが、供給ショックの場合は景気の悪化、需要ショックの場合は景気の改善の予想を伴うことが示された。
換言すれば、フォワード・ルッキングなインフレ期待がアンカーや将来の需要要因によって物価安定目標に向かって上昇している場合は、賃金と物価の好循環や景気の改善をもたらす「良い期待形成」が進んでいるといえる。この場合には、消費や投資を後押しし、内需の拡大を通じた需給ギャップの改善をもたらすと考えられる。
他方、物価安定目標に向かって上昇している力が将来の供給要因である場合は、コスト上昇と捉えられ、実質賃金・実質可処分所得の低下や期待成長率の低下をもたらす「悪い期待形成」が進んでいるといえる。場合によっては、予備的貯蓄の増加も伴って、消費や投資は先送りないし節約・計画変更といった形で鈍化・減少し、需給ギャップや期待成長率には下押し方向に作用すると考えられる。
ここで、企業や家計の期待形成の中身を掴むために、「アンカー」「需要要因の期待」「供給要因の期待」を表し得る指標を並べたものが図表3、4である。

企業について、物価全般の中長期見通しは2023年以降、2%を上回って上昇してきたものの、物価安定目標からの乖離幅は限定的であり、それなりにアンカーされているといえる<図表3左図>。「需要要因の期待」の代理変数として短観の国内需要判断DIをみると、ここ数年は概ね横ばいで推移してきたところ、足もとで幾分上昇する気配が感じられる<図表3中図>。「供給要因の期待」の代替指標として短観の仕入価格判断DIをみると、こちらも足もとでやや大きめに上昇している<図表3右図>。こうしたことから、供給要因の上昇がみられるもの、総じてみれば企業部門には「良い期待」が働いていると考えられる。

これに対し、家計はやや様相が異なる。5年後の物価の予想は2%を大きく上回り、上方への乖離が続いている<図表4左図>。「需要要因の期待」として景気の先行き見通しに関する指標を確認すると、2025年後半に大きく悪化幅が縮小したものの、足もとでは再び悪化幅が拡大している<図表4中図>。他方、家計の「供給要因」の期待を、供給要因が大きく働いた食料価格や為替レートの動きで見てみると、水準として大きく上昇した(円安が進んだ)局面で、インフレ期待が上昇したことが改めて確認できる<図表4右図>。まとめると、物価予想は2%にアンカーされず、先行きの景況感も悪化し、供給要因が支配的であることから、家計の場合には「悪い期待」が働いていると考えられる。
9月は利上げの効果と副作用の見極めが一段と重要な会合に
その上で、物価の上振れリスクに対しては、上記のような投資=需要の抑制が需給ギャップの改善を緩やかにすることで、内需からのインフレ圧力の発生を弱める効果が生じうる。また、インフレ期待については、特に企業において、物価目標に対するアンカーの強まりや、需要要因の期待が部分的に抑制されることなどを通じて、さらなる中長期インフレ期待の上振れリスクを抑制する効果もあるだろう。
他方、家計のインフレ期待については、現状、供給要因の期待が中心であると考えられることから、利上げ自体がインフレ期待の抑制に効くかは不透明だ。むしろ、アンカーの部分や、需要要因の期待が下押しされて、全体としてインフレ期待が抑制されたとしても、それが「良い期待」とならずに、消費や住宅投資意欲を想定以上に抑制し、景気全体の減退につながるリスクもある。
このように、物価やインフレ期待の形成上、いまだ供給要因が相応に効いており、それゆえに、家計消費を中心に経済成長の力強さを欠く状態において、利上げペースを加速していくことは、副作用が生じるリスクを同時に高めていくことにほかならない。したがって、先行きについて、今後も3か月に1度といったペースで利上げを継続することや、中立金利を超えて利上げを行っていくという政策判断は、現時点では合理的でないように思う。一旦利上げの影響を見極め、政府の政策の効果も含めて家計の経済活動が盤石になったことを確認してから、改めて利上げペースや利上げの終着点を検討することが望ましい。
(注1)価格は合理的な期待と需給ギャップによって決まると考える標準的なニュー・ケインジアン・フィリップス曲線に対して、過去の物価上昇率も影響を及ぼすとして価格の粘着性を組み込んだ定式であり、ハイブリッド型ニュー・ケインジアン・フィリップス曲線とよばれる。
(注2)ただし、喜舎ら(2024)は、中長期インフレ予想の形成メカニズム自体には不確実性が高いことも指摘している。喜舎場唯・柴田菜緒・福永一郎・米山俊一(2024)、「わが国のインフレ予想形成の不確実性-マクロ経済モデルQ-JEMを用いた予想形成メカニズムの分析-」、日本銀行ワーキングペーパーシリーズ、No.24-J-23
(注3)開発ら(2024)は、「インフレ予想の上昇が実質資金調達コストの低下等を通じて、民間経済主体の支出を増加させる「期待チャネル」が、わが国において働きうる」ことを示した。開発壮平・中野将吾・山本弘樹(2024)、「中長期 インフレ予想の変動が経済・物価へ及ぼす影響」、 日本銀行ワーキングペーパーシリーズ、No.24-J 20
(注4)Jinnai, R., Mikami, T., Okuda, T., and Nakajima, J. (2021), “Household Inflation Expectation and Consumption: Evidence from Japan,” The Economic Review, Vol. 72, No. 3, pp. 268–295.
(注5)Peter Andre, Carlo Pizzinelli, Christopher Roth, Johannes Wohlfart, “Subjective Models of the Macroeconomy: Evidence From Experts and Representative Samples,” February 2022. The Review of Economic Studies, Volume 89, Issue 6, November 2022, Pages 2958–2991.
プロフィール
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石川 純子のポートレート 石川 純子
金融イノベーション研究部
大学卒業後、日本銀行で米英や新興国の金融経済やマクロ政策に関する調査と日銀自身による政策決定に資する資料作成に携わった後、米国コロンビア大学大学院で公共政策学の修士を取得。NRIに入社後はこうした経験と知見を活かしつつ、金融環境が激変する下での中央銀行や監督当局による政策対応やデジタル通貨の運営を考える「金融市場パネル」や「通貨と銀行の将来を考える研究会」の企画・運営に順次携わるほか、専門的知見を有する英国・欧州に重点を置きながら、マクロ政策運営について意見を発信。サステイナブル金融についても、主として政策や規制の面から課題や対応に関する調査へとスコープを拡大中。
※組織名、職名は現在と異なる場合があります。