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7月30日の金融決定会合後に行われた日銀総裁記者会見で特に注目されたのは、対外公表文に新たに加えられた「躊躇なく、追加緩和措置を講じる」の文言についての説明だ。

この文言は総裁が以前から好んで使ってきたフレーズであり、必ずしも新味はない。ただし、従来は「物価のモメンタムが損なわれる場合」としていたのに対して、今回はこれを「物価のモメンタムが損なわれる惧れが高まる場合」と修正し、実績ベースから見通しベースに変更したことを総裁は強調していた。この点から、追加緩和のハードルは、今までよりも一段下がったとの印象がある。

これは、海外主要中央銀行の金融政策対応や経済情勢の変化などを受けて、金融環境が急変する、いわば非常事態が生じた場合には、臨時会合の可能性も含めて追加緩和に踏み切る意思を予め示すものと言えるのかもしれない。また、日本銀行だけが追加緩和実施のハードルが高いとの市場の観測が、将来、急速な円高を生じさせるといったリスクを減らす意図があるとも考えられる。

他方、物価のモメンタムが損なわれる惧れを判断する上で重要なのは、需給ギャップの改善傾向が崩れること、あるいは、実際の物価上昇率が高まっても中長期の予想物価上昇率が高まらないこと、と総裁は説明した。いずれにしても、やや長い目で見て判断する必要がある要素だ。

さらに、需給ギャップの変化の鍵を握る海外経済の下振れリスクについても、総裁は保護主義的な傾向が長期化することを重視している。いずれにしても、目先のリスクとは言えない。この両者を踏まえると、追加緩和のハードルが一段下がったことは確かだとしても、事態の急変が無い限り、次回会合など近い将来の追加緩和実施を日本銀行が現時点で念頭に置いている訳ではないと考えられる。

ところで、年後半の世界経済の持ち直しを強調していた前回会合までと比べると、総裁の海外経済の判断がやや厳しくなった印象がある。ここには、金融市場の期待をコントロールするための微妙な匙加減、あるいはその模索の過程が反映されているのではないか。展望レポートを見ても、実際の経済・物価の判断は、前回4月時点からほとんど変化していない。

欧米での追加緩和実施の可能性が高まる現在の環境の下で、日本銀行が強気の景気判断を示す場合には、追加緩和期待が後退し、円高進行など国内金融市場を不安定にさせてしまうリスクが生じる。この点に照らせば、本音よりも弱気の景気判断を敢えて示す方が、金融市場の安定にはプラスとなる。

他方で、内外景気の下方リスクを強調しすぎると、市場の景況感を悪化させ、株式市場の不安定性を高めてしまう可能性もある。さらに、それを受けて市場での追加緩和期待が過度に強まれば、金融政策が市場の期待に支配される状態となってしまうリスクもある。

金融市場の反応や金融市場の期待形成を考慮に入れる場合、実際の景気判断とは別に、それをどのように市場に伝えるべきかは、中央銀行は常に迷うところでもある。総裁の経済判断がブレているように見える背景には、こうした事情があるのではないか。

こうした点を踏まえても、やはり、金融市場の混乱など不測の事態が生じない限り、当面日本銀行は追加緩和をできるだけ温存する戦略を維持するのではないか。

プロフィール

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    木内 登英

    金融ITイノベーション事業本部

    エグゼクティブ・エコノミスト

    

    1987年に野村総合研究所に入社後、経済研究部・日本経済調査室(東京)に配属され、それ以降、エコノミストとして職歴を重ねた。1990年に野村総合研究所ドイツ(フランクフルト)、1996年には野村総合研究所アメリカ(ニューヨーク)で欧米の経済分析を担当。2004年に野村證券に転籍し、2007年に経済調査部長兼チーフエコノミストとして、グローバルリサーチ体制下で日本経済予測を担当。2012年に内閣の任命により、日本銀行の最高意思決定機関である政策委員会の審議委員に就任し、金融政策及びその他の業務を5年間担った。2017年7月より現職。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。