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最低賃金の急速な引き上げは雇用を悪化させ成長を阻害

今年度の最低賃金の引き上げの目安を決める労使間の審議(中央最低賃金審議会の小委員会)が、13日に始まった。労使間の意見の隔たりは大きく、審議は物別れに終わった。

最低賃金は現在全国平均で902円だ。政府の方針のもと、2016年以降は毎年3%程度の急速な引き上げが実施されてきたが、昨年は新型コロナウイルス問題の影響で審議会が引き上げの目安を示さず、都道府県の引き上げ額は平均1円とほぼ横ばいにとどまった。政府は今年の「骨太の方針」で、より早期に全国平均で1,000円を目指す方針を改めて示している。しかし、最低賃金を引き上げ、所得を増加させることを起点に新たな経済の好循環を生み出す、との考えは危ういのではないか。

労働者間の賃金の公正性の観点から実施される、いわば社会政策としての最低賃金引き上げについては、必要に応じて着実に進めるべきである。しかし、経済政策としての最低賃金引き上げには慎重であるべきだろう。

基礎的な経済学が教えるところは、実質賃金(名目賃金÷物価)が上昇すれば、企業は雇用を減らす。その結果、失業者は増える。これは社会厚生の観点から望ましいことでない。また、成長力向上につながる設備投資にも悪影響が及ぶ可能性がある。仮に企業が雇用を守ろうとしても、人件費増加による収益悪化で企業が廃業に追い込まれれば、やはり失業者が増えてしまうのである。

昨年、政府は最低賃金引き上げを事実上見送った。コロナ禍のもとで雇用への悪影響に配慮したためだ。政府は最低賃金引き上げが雇用に悪影響を与える可能性について、正確に認識しているのである。厳しい経済情勢は今年も変わらないはずだ。

経済の潜在力向上に近道はない

賃金上昇は、生産性向上の成果配分として労使間交渉を経て決まるものだ。そして最低賃金は、それに合わせて公正性の観点から引き上げられていくべきものだろう。賃金を無理に上げるのではなく、まず政府は、企業、雇用者の生産性向上を引き出す措置に最大限注力するべきではないか。

賃金や物価の上昇率は、生産性上昇率や潜在成長率といった経済の潜在力によって結果的に決まる。逆に賃金・物価の方を操作しようとすれば、経済に大きな歪みを生みかねない。2%の物価目標達成を目指した日本銀行の「量的・質的金融緩和」、政府が春闘の賃上げに強く介入する官製春闘、そして2016年以降の3%を超える最低賃金の急速な引き上げ。いずれについても、少なくとも経済の好循環につながった明確な証拠はないだろう。

2%の物価目標を目指す日本銀行の金融緩和策についても同様であるが、最低賃金さえ引き上げれば経済情勢はいともたやすく改善する、と企業や労働者が思い込めば、苦労して生産性向上に取り組む意欲が削がれてしまう。それは、最低賃金引き上げを政策の柱に掲げることの大きな弊害である。

経済の潜在力向上に近道はない。それにつながる多くの取り組みを、政府、民間が地道に取り組んでいく他はないのである。

 

プロフィール

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    木内 登英

    金融ITイノベーション事業本部

    エグゼクティブ・エコノミスト

    

    1987年に野村総合研究所に入社後、経済研究部・日本経済調査室(東京)に配属され、それ以降、エコノミストとして職歴を重ねた。1990年に野村総合研究所ドイツ(フランクフルト)、1996年には野村総合研究所アメリカ(ニューヨーク)で欧米の経済分析を担当。2004年に野村證券に転籍し、2007年に経済調査部長兼チーフエコノミストとして、グローバルリサーチ体制下で日本経済予測を担当。2012年に内閣の任命により、日本銀行の最高意思決定機関である政策委員会の審議委員に就任し、金融政策及びその他の業務を5年間担った。2017年7月より現職。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。