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「ステークホルダー資本主義」と「株主資本主義(株主至上主義)」

岸田政権が掲げる「新しい資本主義」の具体的な姿は、依然として明らかになっていないが、岸田首相の断片的な発言などを踏まえて考えると、その源流は、近年、世界で注目を集めてきた「ステークホルダー資本主義」にあるように思われる。世界で主張されているこの「ステークホルダー資本主義」は、格差問題、環境問題などへの対応が主であるが、岸田政権は、この「ステークホルダー資本主義」と日本特有の問題である賃金の低迷という問題への対応、すなわち賃上げ、分配政策とを結びつけて、「新しい資本主義」という政策のパッケージを作り上げようとしているように見える。

株主、従業員、顧客、取引業者などのステークホルダー(利害関係者)による企業統治(コーポレートガバナンス)を通じて企業を変革していくのが海外での潮流であるが、日本ではこのプロセスを政府が主導しようとしているのが大きな違いなのだろう。

「ステークホルダー資本主義」とは、「株主資本主義(株主至上主義)」の対義語である。従来の「株主資本主義(株主至上主義)」では、短期的な株主の利益の最大化が最も重要、と位置づけられており、その結果、従業員や環境、地域社会に負荷をかけるという問題が生じてきた。これに対して、企業が従業員や、取引先、顧客、地域社会といったあらゆるステークホルダーの利益に配慮すべきという考え方が「ステークホルダー資本主義」である。

米ビジネス・ラウンドテーブルとダボス会議がきっかけに

「ステークホルダー資本主義」が注目を集めるきっかけとなったのは、2019年8月の米経済団体ビジネス・ラウンドテーブルの声明だ。「米国の経済界は株主だけでなく、従業員や地域社会などすべてのステークホルダーに経済的利益をもたらす責任がある」とする声明が発表されたのである。この声明には、会長を務めるJPモルガンのジェイミー・ダイモンCEO(最高経営責任者)を含め、180を超える主要企業のトップが署名をした。

米企業が株主第一の姿勢の見直しを表明した背景には、格差の解消に向けて企業の責任拡大を求める声が米国で高まっていたことがあった。2008年のリーマンショック(グローバル金融危機)以降、所得・資産格差の拡大が大きな社会問題となってきたのである。

さらに、これを受けて、2020年1月の世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)が、「ステークホルダーがつくる、持続可能で結束した世界」というテーマを掲げたことも注目された。世界経済フォーラムの創設者クラウス・シュワブ会長は、「ステークホルダー資本主義の概念に具体的な意味を持たせたい」と語った。

今年1月18日に岸田首相は、この世界経済フォーラムにオンライン形式で出席し、世界の「新しい資本主義」の流れを日本がリードするとの思いを語った。その背景には、2020年の世界経済フォーラムで、「ステークホルダー資本主義」が世界の注目を集めたことがあったのだろう。

日本に以前からある「三方よし」の精神と渋沢栄一の教え

目先の利益を優先する企業の経営姿勢に修正を求める「ステークホルダー資本主義」が世界で注目され始めたことを受け、日本の企業や政府は、「我が意を得たり」との思いを強めたことだろう。この点も、岸田政権が「新しい資本主義」を標榜し、その流れを世界でリードすると主張する底流にあるのだろう。

例えば、近江(現在の滋賀県)に本店を置いて、かつて日本各地で活躍した近江商人がモットーとしていたのが、「買い手よし、売り手よし、世間よし」の「三方よし」の精神だった。日本企業は以前より、短期的な利益だけを追い求めるのではなく、広くステークホルダーの利益を重視し、社会のために活動するとの意識を持ってきた、と自負する向きも多い。さらに、渋沢栄一は「富をなす根源は何かといえば、仁義道徳」として、既に100年も前に、経営に道徳、倫理を求めていたのである。

仮に、このような「ステークホルダー資本主義」の土壌が長らく日本に根付いていたとしても、日本企業の経営に学ぼう、という姿勢は海外では簡単には広まらないのではないか。このような経営姿勢が、多少長い目で見た企業の競争力、持続性、良好な経済環境、豊かな生活、地球環境の改善、多様性社会の推進などを後押ししてきたようには、現在の日本の経済状況を見る限り思えないからだ。

真の「人的投資」を推進すべき

岸田政権は、賃上げ促進に注力している。賃上げ促進税制の導入を決定した上、現在行われている春闘では、企業側には大幅な賃上げを要請している。その際に、賃上げは「人的投資」との説明をしている。賃上げは企業にとって単なる負担ではなく、将来の収益増加へとつながる、いわば先行投資である、との主旨だろう。

しかしこの表現は、ミスリーディングではないか。賃金はあくまでも労働者の生産活動に対する貢献度、労働の成果で決まるもの、というのがその本質だろう。賃上げによって労働者のモラルが高まり、それが生産性・収益の向上につながるとの経路はあり得るが、不確実である。効果が明確でないものに企業が資金を投入できないことは当然のことだ。「人的投資」の観点から政府が企業に賃上げを求めることは、企業にそうした行動を強いることになるのである。

他方で、岸田政権が掲げる労働者の能力開発、技能習得、学び直し、リスキリングなどが、本当の「人的投資」と言える。それらは、労働生産性上昇、労働市場のミスマッチの緩和を通じて産業構造の高度化などにも資するものだ。それは、企業にも大きなメリットを生むものである。持続的な賃上げには、労働生産性の向上、企業の成長期待の高まりが不可欠であることから、政府は賃上げを促す政策から、真の「人的投資」を促す政策に重点を移すべきではないか。

政府主導の見直しにはリスクも

岸田政権が掲げる「新しい資本主義」が、「ステークホルダー資本主義」をベースにしているのであれば、既に世界的に受け入れられているものであり、「新しい」とは言えない。

ただし海外では、企業の経営方針の見直しは、株主などステークホルダーとの対話を通じて、企業自らが進めている側面が強いのではないか。その推進役を担っているのが金融であり、市場原理なのである。

例えば、気候変動の問題であれば、二酸化炭素排出量の社会的コストを株主などが推定し、それを削減すれば株価上昇で企業価値が高まる、あるいは資金調達コストが低下するといったインセンティブが企業に与えられる。それを踏まえて企業は活動を見直し、社会的コストを減らすように経営を変革させていくのである。そうした模索のプロセスを、企業とステークホルダーが、対話を行いながら、慎重に進められている。

岸田政権が掲げる「新しい資本主義」が、このプロセスに政府が強く関与することを想定しているのであれば、そこには相応のリスクがあると言えるのではないか。様々な社会的課題を考慮した最適の資源配分について、政府が正しい答え、最適解を知っているとは思えない。この最適解は、社会全体の効用を最大化させるものだが、気候変動問題のように長期的な課題の場合には、それは次世代の効用までも含めたものでなければならず、非常に複雑なのである。

企業に対して、政府がいたずらに規制強化を進めれば、最適解から大きくずれ、企業活動や収益性を低下させ、株主や従業員などの利益を損ねてしまうだろう。この点は、国益重視の観点から、企業に対する規制を強化する「経済安全保障政策」にも通じるものである(コラム「 2022年に本格化する経済安保政策は企業の自由な活動とステークホルダーの利益にも配慮を 」、2021年12月27日)。

政府が資本主義の問題点を真摯に修正しようとするのであれば、その問題解決には、金融など市場原理の力を最大限借りる必要が出てくるのである。政府は政府の力の限界も認識すべきではないか。

(参考資料)
新しい資本主義(ステークホルダー論)を巡る識者の議論の整理 」、新しい資本主義実現会議(第1回)資料4、内閣官房、2021年10月26日
「「未来世代」は視野にあるか ステークホルダー資本主義 隆盛」、日本総合研究所理事 足立英一郎、2020年1月31日、日経産業新聞

 

プロフィール

  • 木内 登英のポートレート

    木内 登英

    金融ITイノベーション事業本部

    エグゼクティブ・エコノミスト

    

    1987年に野村総合研究所に入社後、経済研究部・日本経済調査室(東京)に配属され、それ以降、エコノミストとして職歴を重ねた。1990年に野村総合研究所ドイツ(フランクフルト)、1996年には野村総合研究所アメリカ(ニューヨーク)で欧米の経済分析を担当。2004年に野村證券に転籍し、2007年に経済調査部長兼チーフエコノミストとして、グローバルリサーチ体制下で日本経済予測を担当。2012年に内閣の任命により、日本銀行の最高意思決定機関である政策委員会の審議委員に就任し、金融政策及びその他の業務を5年間担った。2017年7月より現職。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。