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米国賃金上昇率に鈍化の兆候か

4月1日に発表された米国の3月分雇用統計は、米国の経済、雇用の強さを裏付けるものとなった。非農業部門新規雇用者数は43万1,000人増加し、過去2か月分の雇用者増加数も上方修正された。今年に入ってからの雇用者の月間増加数は平均56万2,000人と、昨年来の力強いペースが維持されている。また失業率は2月の3.8%から3.6%に低下し、コロナショック前の2020年2月の3.5%の水準にかなり近づいてきた。

今回の雇用統計は、5月3・4日に開かれる次回米連邦公開市場委員会(FOMC)前に発表される最後の雇用統計となる。雇用者数の増加、失業率の低下を受けて、5月のFOMCでは、0.5%の大きな幅での利上げ(政策金利引き上げ)が実施される可能性が高まった。さらに6月のFOMCでは2回連続で0.5%の大きな幅での利上げが実施される、との見通しも増えてきている。

ただし、米連邦準備制度理事会(FRB)が急速なペースで利上げを進めようとしているのは、米国経済が堅調であり、コロナショックの打撃を克服しつつあるからではない。40年ぶりの高い物価上昇率を受けて、それへの対応が遅れないようにするためである。従って、当面のFRBの金融政策に大きな影響を与えるのは、景気動向よりも物価動向である。そして、この雇用統計でインフレリスクを測る指標となるのは賃金上昇率だ。

今年1月までの6か月間の時間当たり賃金上昇率の前月比平均値は+0.5%だった。ところが2月には前月比+0.1%と低い上昇率にとどまっていた。そして今回の3月分では同+0.4%と上昇率は高まったものの、2月の上昇率がかなり下振れたことの大きな反動は見られず、2か月間の平均は前月比+0.25%と、それ以前のトレンドの半分にとどまったのである。

急速な利上げが景気を殺してしまわないか

未だ明確な判断はできないが、この賃金上昇率の鈍化の兆候は、深刻な人手不足が緩和されてきていることの証拠である可能性も考えられる。昨年春以降の需要回復を受けても、感染リスクが高いことで失業した人が直ぐに再雇用されることを控える動きが見られた。それは、昨年秋まで続いた失業給付の上乗せ措置によって増幅されたのである。

再雇用を控える動きは、雇用統計では、労働参加率の低さや非労働力人口の増加となって表れた。ところが、足元で前者は上昇傾向で推移し、後者は着実に減少してきている。失業者の再雇用が進む中で、特定業種での深刻な人手不足は緩和され、それが賃金上昇率の鈍化につながってきている可能性が考えられる。つまり、労働市場の正常化が進んできた可能性があるのだ。

コロナ問題を受けて、消費者は旅行関係や飲食などのサービスから家具、家電、住宅などのモノへと需要構造をシフトさせた。世界的な物価上昇率や賃金上昇率の上振れは、需要が高まった業種に生産と労働者がシフトしていくことで産業構造が変化することを促す、一種の「産みの苦しみ」である。ここで、急激な利上げを実施することは、コロナ問題をきっかけとする産業構造の変化を止めてしまうことにもなりかねない。

米国で賃金上昇率の鈍化が見られ始めたということは、そうした産業構造の変化が一定程度進み、米国経済が新たな均衡点に近付いている可能性を意味するだろう。賃金上昇率の鈍化は、物価上昇率の鈍化にもつながるはずだ。

ところがウクライナ問題を受けたエネルギー価格の高騰によって、表面的な物価上昇率はしばらく上振れることになった。これに対してFRBが急速な利上げで対応すれば、経済活動や金融市場に強い逆風となり、景気を殺してしまう、いわゆる「オーバーキル」を生じさせてしまうリスクが高まるのではないか。

産業構造の変化が一定程度進み、賃金上昇率や基調的な物価上昇率が鈍化し始めたことが確認されれば、それを踏まえて、利上げペースを調整させることで景気悪化を回避できるのではないか。あるいは、FRBは、しばらく続く表面的な物価上昇率の上振れを受けて急速な利上げペースを維持し、結局、景気を殺してしまうのか、FRBの目利き力が試される微妙な局面へと入ってきた。

(参考資料)
"March Jobs Report Keeps Fed on Track for Larger Rate Rise in May", Wall Street Journal, April 2, 2022
"Wage Gains Show Signs of Slowing", Wall Street Journal, April 2, 2022

 

プロフィール

  • 木内 登英のポートレート

    木内 登英

    金融ITイノベーション事業本部

    エグゼクティブ・エコノミスト

    

    1987年に野村総合研究所に入社後、経済研究部・日本経済調査室(東京)に配属され、それ以降、エコノミストとして職歴を重ねた。1990年に野村総合研究所ドイツ(フランクフルト)、1996年には野村総合研究所アメリカ(ニューヨーク)で欧米の経済分析を担当。2004年に野村證券に転籍し、2007年に経済調査部長兼チーフエコノミストとして、グローバルリサーチ体制下で日本経済予測を担当。2012年に内閣の任命により、日本銀行の最高意思決定機関である政策委員会の審議委員に就任し、金融政策及びその他の業務を5年間担った。2017年7月より現職。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。