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岸田首相が「年収の壁」問題への対応を明言

岸田首相は2月1日に、「年収の壁」問題の解消に向けて制度を見直す考えを示した。パートの主婦など短時間労働者が、一定以上の水準を超えて労働時間を増やすと、社会保険制度上あるいは所得税制上の扶養者の扱いから外れ、手取りの収入が減ってしまう。また、それを避けるために勤務時間を調整することが人手不足問題を深刻にさせ、女性の活躍を妨げてしまう、といった問題が年収の壁と呼ばれるものだ。

主な年収の壁には所得税が発生する103万円、一定条件を満たすと厚生年金や健康保険に加入して新たに社会保険料が発生する106万円及び130万円、配偶者特別控除が減り始める150万円などがある。これらのうち、特に手取り収入への影響が大きいのが、106万円と130万円の社会保険料の壁である。

岸田首相が、長年指摘されてきたこの「年収の壁」問題への対応を進める考えを示したことは評価できる。ただし、制度の見直しは簡単ではないだろう。

社会保険加入の所得条件引き上げは新たな問題を生む

自民党の平氏は予算委員会で、「年収が一定額を超えた瞬間、働いても社会保険料の負担で逆に所得が減る。さらに働き続けないと壁を越えられない」と問題点を指摘した。そのうえで、制度変更には時間がかかることから、一時的に政府が扶養者の新たな保険料負担を補助し、その間に制度の抜本改革に取り組むように提案した。

それに対して岸田首相は、一時的な保険料補助について、「単身世帯の方々との間の公平という問題がある」とその提案を退けたが、その上で、「年収の壁」問題の解消に向けて政府として対応を検討する考えを明確に示したのである。

勤務時間の調整を引き起こさないようにするためには、社会保険の加入が義務付けられる所得の水準を引き上げる、というのが選択肢の一つとなる。それは、短時間労働者の労働時間を増やすことにつながるだろう。ただしそれでは、社会保険料の収入が減り、厚生年金や健康保険の財政を一層悪化させてしまう。

保険適用の拡大が制度改革の方向

岸田首相は、自民党の平氏の質問を受けて、「壁を意識せず働くことが可能になるよう、短時間労働者への被用者保険の適用を進めてきた」と、これまでの取り組みを説明している。ここに、「年収の壁」問題への対応の考え方が示されている。社会保険の適用範囲を拡大していくことで、社会保険制度の安定性を高め、将来の年金受取り額を増やすとともに、勤務時間の調整を防ぐ、というのが岸田首相の基本的な考え方である。これに照らせば、扶養扱いをやめて、すべての短時間労働者を社会保険に加入させていく方向で、今後制度は変更されていくのではないか。

例えばパートの主婦が新たに社会保険に加入すれば、保険料の支払いが発生してその分は手取りの収入が減る。しかし、「年収の壁」の問題がなくなれば、働く意欲があれば、そうした人たちは勤務時間を延長させることで、手取りの収入を増やすことができる。また、将来の年金の受け取りを増やすこともできるだろう。

他方、「年収の壁」の問題ではなく、子育てや介護などの理由で短時間の勤務を強いられている人は、勤務時間を簡単には延長できないことから、新たな保険料の支払い分だけ手取りの収入が減ってしまう。この点については、何らかの支援策が必要になるのではないか。

扶養扱いの廃止が大きな経済効果を生じさせるとの試算も

東京大学教授の山口慎太郎氏によれば、最低賃金の引上げに伴い、過去25年間でパートタイム労働者の時間当たり賃金は29%上昇したが、その年収の伸びはわずか4%に留まった。これは、同時期にパートタイム労働者の総実労働時間が19%近く減少したためであり、ここに「年収の壁」による勤務時間調整の影響が如実に表れている。これは、労働供給を制約し、また女性活躍の機会を削ぐことで、日本経済に大きな損失となっているだろう。こうした点から、「年収の壁」問題の解消は、政府の経済政策として喫緊の課題である。

北尾早霧・東京大教授らは、国民年金の加入者のうち扶養扱いとなり、社会保険料を支払う必要がない第3号被保険者の制度や配偶者控除制度などを廃止すれば、女性の労働所得が最大で28%高まる、との試算を示している。就業意欲が高まることで労働参加率や正規就業の比率が上がる。さらに、女性労働者の経験やスキルの蓄積が進むことが、所得増加をもたらすのである。

社会保険の適用拡大を通じた「年収の壁」問題の解消は、このように、長い目で見れば日本経済に大きなメリットをもたらす可能性があるだろう。制度改正に向けた岸田政権の果敢な取り組みに期待したい。

(参考資料)
「就業意欲妨げる制度の改革を 東京大学教授・山口慎太郎-ダイバーシティ進化論」、日本経済新聞電子版、2023年1月23日

 

プロフィール

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    木内 登英

    金融ITイノベーション事業本部

    エグゼクティブ・エコノミスト

    

    1987年に野村総合研究所に入社後、経済研究部・日本経済調査室(東京)に配属され、それ以降、エコノミストとして職歴を重ねた。1990年に野村総合研究所ドイツ(フランクフルト)、1996年には野村総合研究所アメリカ(ニューヨーク)で欧米の経済分析を担当。2004年に野村證券に転籍し、2007年に経済調査部長兼チーフエコノミストとして、グローバルリサーチ体制下で日本経済予測を担当。2012年に内閣の任命により、日本銀行の最高意思決定機関である政策委員会の審議委員に就任し、金融政策及びその他の業務を5年間担った。2017年7月より現職。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。