三位一体の労働市場改革
岸田政権は、「構造的賃上げ」の実現をこの先の優先課題に掲げている。さらに、それを達成する具体的手段として示しているのが、「リスキリング(学び直し)」、「日本型職務給(ジョブ型)の導入」、「成長分野への円滑な労働移動」の3つであり、それらをまとめて「三位一体の労働市場改革」としている(コラム「 人への投資、リスキリングと労働市場の流動化 」、2022年10月14日、「 岸田首相施政方針演説1年の変化:成長重視への経済政策転換と構造的賃上げ・リスキリング 」、2023年1月23日、「 日本型職務給は構造的賃上げを後押しするか 」、2023年1月27日)。
リスキリングを通じた個々の労働生産性の上昇を、転職を通じて産業構造の高度化を伴う形で経済全体の生産性向上と賃上げにつなげていくという発想は正しい。さらにそれを実現するには、雇用・給与制度を年功序列的な職能給から職務給(ジョブ型)に変えていくことが必要となる。
ただし、「三位一体の労働市場改革」は、政府の政策のみで実現できるものではないだろう。技能向上やリスクを取った転職などが広がりを見せるようになるには、労働者の意識改革が欠かせない。年功序列などの慣習を見直すには、企業の意識改革も欠かせない。
政府は転職を促す支援策を検討
政府は、リスキリングによる労働者の技能向上を労働市場の流動化、つまり転職と結びつけることで、経済全体の生産性向上とそれによる賃上げを促すことを目指す。そこで政府は、ITや医療・介護に携わる人材を確保し、彼らの賃金上昇を促すため、新たな技能の学び直しから転職までを切れ目なく支援する新たな制度を示している。現在は企業が主に対象となっているリスキリング支援について、個人の希望者を対象にする形態へと切り替えていく方針だ。
支援対象となるのは正社員のみでなく、契約社員、派遣社員、パート・アルバイトも含まれる。転職希望者がキャリアコンサルタントに相談する費用やリスキリング講座費の一部を支援する。講座はプログラミング、ウェブデザイン・動画編集、医療・介護などの分野で最大1年間受講できる。政府が講座の受講費用を1人あたり平均24万円補助する。さらに、受講したうえで転職に成功して1年以上在籍すると、最大で56万円が補助される。政府は3年間で30万人超の転職支援を目指している。
他社への転職を視野に入れたリスキリングについては、企業が積極的にならない可能性もあることから、補助の対象を企業から個人にシフトさせるのは良いことではないか。
転職を促す施策としては、リスキリングへの補助以外に、自己都合で退職する場合の失業給付の受給条件を会社都合の退職に近づけること、同じ企業で20年以上働いた人を対象に優遇される退職金税制を見直すことも、政府は検討している。
ただしこれらには、一般的な従業員の転職を促す効果は期待できるだろうが、政府が当面の対象とするハイスキルの人材の転職を促す効果は限定的ではないか。例えば、そうした人材は、転職先を決めてから離職する傾向が強く、失業手当を受け取らないケースが少なくないと考えられるからである。
転職を促す政府の施策は、当面はハイスキルの人材に焦点をあて、その後に幅広い労働者の転職を促す、という2段構えが適当だろう。
日本は従業員解雇に特に厳しい法制ではない
企業の立場からすれば、従業員を解雇することがより容易になれば、新規雇用や賃上げが経営の負担となるリスクが軽減されることになり、新規雇用や賃上げを積極化するインセンティブとなる。この点から、労働市場の流動化を構造的賃上げへとつなげていくには、いずれは日本企業による従業員の解雇のあり方についても、政府として検討を進めていく必要が出てくるだろう。
日本の法制度が、他国と比べて、従業員の解雇を難しくしていると考えるのは必ずしも正しくはない。民法第627条では、使用者が2週間の予告期間を置けばいつでも労働者を解雇できるという、「解雇の自由」が認められている。経済協力開発機構(OECD)の法的側面から解雇しやすい国のランキングをみると、日本は37か国中13番目と、平均よりも解雇に関する法的規制が緩いことが示されている。
ただし1970年代頃から、合理的な理由がない解雇、社会通念上適当でない解雇を「解雇権濫用」として無効とするという判例が増え、それらを積み重ねた「判例法理」が発展していった。2003年にはそれが労働基準法の中で明文化され、さらに2007年にはその規定内容が移し替えられる形で「労働契約法」が成立した。その第16条で、「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする」と規定されたのである。
解雇法制の見直しよりも日本型職務給制度(ジョブ型)の拡大が重要に
このような経緯の下、日本企業は解雇に慎重な姿勢を強めていった。ただし、法令の積み重ねで形成されていった「解雇権濫用」の判例も、職能給制度が中心である日本型の雇用、給与制度と深く結びついているように見える。
多くの従業員について、職務が限定されていない(メンバーシップ型)日本の企業では、経営不振を受けた合理化など、経営上の理由に基づく人員整理として行われる「整理解雇」の合理性が認められにくい。経営環境の変化で特定の職務がなくなったとしても、従業員を他の職務に異動させて雇用を維持することができるためである。 他方、従業員の職務が限定され、その職務への貢献度に応じて給与が決まる職務給制度(ジョブ型)が広がっていけば、企業にとって解雇のハードルは下がるだろう。それは、新規雇用と賃上げを促す。
日本型職務給制度(ジョブ型)のもとでは、リスキリングによって技能を高めた従業員の給与が上がりやすくなる。また、職務内容によって給与の市場価格が決まれば、転職がより容易になる。この点から、日本型職務給制度(ジョブ型)は、「構造的賃上げ」の実現にとって欠かせないのである。さらに、日本型職務給制度(ジョブ型)が広がることで、企業にとって解雇のハードルが下がることが、労働市場の流動性を高めるだろう。
解雇に関する法制を一気に見直すことには、失業増加への不安を高めることで社会を混乱させるリスクもあるだろう。法制の見直しよりも、まずは日本型職務給制度(ジョブ型)の拡大という雇用、給与制度の見直しを進めることを通じて、労働市場の流動性を高め、それを賃金の上昇につなげることを目指す方が、より現実的なアプローチなのではないか。
(参考資料)
「<フラッシュNEWS>経済産業省・学び直しから転職まで支援する新制度発表」、2023年6月21日、テレビ朝日
「学び直し 1年助成 転職支援 平均24万円 政府新制度」、2023年6月19日、東京読売新聞
「労働改革 賃金上昇に期待 政府指針 3本の柱 働き方選択・転職 促進へ」、2023年5月20日、東京読売新聞
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