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ロシアの黒海封鎖でも小麦価格急騰は一日

ロシアは7月17日、ウクライナ産穀物を黒海経由で輸出させる4者合意から離脱することを発表した(コラム「 ロシアが穀物輸出合意からの離脱を発表 」、2023年7月19日)。その後の動きは、ロシアの早期合意復帰の可能性が低いことを示すものとなっている。小麦など世界の商品市場は、その影響をまだ十分に図りかねている状況だ。

ロシアが合意離脱を宣言した翌日の18日には、小麦価格の上昇幅は2~3%程度に留まった。ロシアは昨年も合意から離脱した後に短期間で復帰していることから、今回の離脱も一時的、との見方があった。さらに、合意から離脱しても、ウクライナ産穀物が多く輸出される低所得国の食料事情を警戒する国際世論に配慮して、ロシアはウクライナ産穀物の黒海経由での輸出継続を黙認する、との期待もあっただろう。

しかしこうした楽観論は修正を余儀なくされた。ロシアはウクライナ南部の港湾都市ミコライウとオデーサを連日空爆したうえ、黒海経由でウクライナの港に向かうすべての船舶は軍事関連物資を積んでいる可能性があるとみなす、と表明したのである。これは、ウクライナへの船舶入港を原則認めない強硬姿勢であり、いわゆる黒海封鎖である。

これを受けて、米シカゴ商品取引所の小麦先物価格は19日に一時前日比で8.9%上昇した。1日の上げ幅としてはウクライナ侵攻開始直後の2022年3月8日以来の大きさである。しかし価格急騰も一日で終わり、20日から21日には下落に転じている。

黒海経由のウクライナ産穀物の輸出を陸路に振り替えることは難しい

ロシアによる黒海封鎖が、ウクライナの穀物輸出を大きく減少させる可能性は高い。欧州連合(EU)は、ウクライナとの結束を示すために設けた陸路の輸送能力を拡大する方針を示している。この陸路は「連帯の経路」と呼ばれるもので、昨年5月にロシアが黒海の港湾封鎖を強行した後にEUが設けたものだ。新たな国境検問所、税関業務での柔軟な対応、ウクライナ産農産物のEU域内での保管所への移動の優遇策、などが盛り込まれている。

しかし、ウクライナ産穀物の陸路での輸出は、周辺国に歓迎されていない面もある。ポーランドやハンガリーなど東欧5か国は19日に共同声明を発表し、9月15日が期限となっているウクライナ産穀物の輸入規制措置を延長する意向を表明した。

東欧5か国は、ウクライナ産穀物の陸路での輸出の経由地となっているが、そこに安価なウクライナ産穀物が滞留してしまっている。これが穀物価格の下落を促し、現地の農家に打撃を与えているのである。そこで、今年4月以降は、ウクライナ産の小麦とトウモロコシ、菜種、ヒマワリの種の輸入を制限してきた。

こうした制約もあり、黒海経由でのウクライナ産農産物の輸出を、そのまま陸路に振り替えることは簡単ではない。ウクライナのクレバ外相は、黒海が封鎖された場合、陸路での代替輸出で埋め合わせることはできない、との考えを明確に示している。東欧の鉄道網を通じてのウクライナ産の穀物や油糧種子の輸出は、ウクライナが望むほどの量には達しないとしている。

黒海封鎖が世界の穀物価格に与える影響はそれほど大きくないか

小麦価格は19日に大幅に上昇したものの、翌日には早くも安定を取り戻している。また上昇後の価格は、ウクライナ戦争勃発を受けて高騰した昨年3月のピークと比べれば、なお半分程度の水準に留まっている。ロシアによる黒海封鎖を受けても、市場がパニックに陥っていないのは、世界全体の穀物供給量への影響がそれほど大きくない、との見方があるからだろう。

ウクライナ産穀物の主な輸入先は、北アフリカ、中東地域であるが、そこには、ロシアやルーマニアなど黒海沿岸の生産国から、小麦を中心に大量の穀物が既に供給されている。また、この先、EU地域で穀物の収穫が進む中、備蓄用の穀物を同地域から調達できるため、穀物供給に大きな不安はないのが現状のようだ。

また、過去数か月の間、黒海を経由したウクライナからの穀物輸送は、小規模に留まっていたのである。ウクライナ産穀物の輸入業者は既に、黒海経由でなく、ルーマニアやブルガリアの港を経由した陸路や、ドナウ川を経由した欧州の港を経由した輸入へと切り替え始めていた。

こうした点を踏まえると、黒海封鎖が、世界の穀物価格に与える影響は、それほど大きくはないのだろう。

ロシアは国連が約束を果たしていないと主張

ロシアは、合意への復帰の条件として、先進国による制裁措置の見直しを挙げている。世界の穀物市場、低所得国の食料供給を人質にして、要求を通そうとしているのである。しかし、合意離脱、黒海封鎖が世界の穀物価格、穀物供給に与える影響がそれほど深刻でないのであれば、その要求が受け入れられる可能性は低いだろう。他方、その結果、黒海封鎖は長期化しやすいのではないか。

ロシア外務省は17日に声明を発表し、合意の一部として国連が約束したロシア産穀物・肥料の輸出障壁の撤廃措置が進展していない、と離脱の理由を説明した。

さらにロシア外務省は合意への復帰の条件として、ロシア農業銀行の国際決済ネットワークSWIFT(国際銀行間通信協会)への再接続、農業機械部品の禁輸措置の解除、ロシア運搬船に対する高額の保険料設定の見直し、各国によるロシア運搬船の入港禁止措置の解除、などを挙げた(コラム「 ロシアが穀物輸出合意からの離脱を発表 」、2023年7月19日)。

ロシアが主張する国連の約束とは、2022年7月にロシアと国連事務局の間で取り交わされた「ロシア産食品・肥料の輸出に関する覚書」のことである。この下で国連は、ロシアによる食品と肥料の輸出拡大に同国政府とともに取り組むことで合意している。これについてグテレス国連事務総長は、ロシア農業銀行が米JPモルガンを通じてSWIFTのシステムの枠外で決済できる仕組みを作った、とその取り組みについて説明している。

ロシアの食料輸出は実際には拡大

ロシアは国連との約束が果たされていないとしているが、国連統計によれば、ロシアの肥料輸出は2022年初めからの10か月間で70%増加し、167億ドル(約2兆3,200億円)に達している。現状でも制裁の影響を受けずに食料を輸出することは可能であり、中東やアフリカ向けのロシアからの穀物輸出はむしろ拡大している。米農務省は、ロシアの小麦の輸出量は2022~2023年度に4,550万トンと侵攻前から4割増加し、過去最高を更新したと推計している。

ロシアは低所得国の食料危機や世界規模での食料価格高騰をもたらしているのは、先進国によるロシアの穀物輸出を制限している経済制裁だと非難している。ロシアが既に見た制裁措置の見直しを合意復帰の条件としている根拠は、こうした考えにある。

しかし、国連の取り組みによって、ロシアの穀物輸出は増加しており、仮にロシア側の要求に応じて先進国が制裁措置を緩和しても、ロシアの穀物輸出がさらに増加し、それが低所得国の食料危機を救い、世界の食料価格の安定回復に貢献する効果は小さいだろう。

合意離脱は制裁措置緩和を引き出すための口実

ロシアには、黒海経由での穀物輸出の合意を口実に、先進国の対ロ経済制裁の緩和、撤廃を段階的に認めさせる狙いがあるのだろう。穀物の輸出のみならず、エネルギーも含めた輸出拡大を期待しているとみられる。

例えば、合意復帰の条件とする「ロシア農業銀行のSWIFT再接続」という要求が受け入れられれば、それに、農産物以外の輸出品の貿易決済を担わせることも可能となるのではないか。また、「ロシア運搬船に対する高額の保険料設定の見直し」、「各国によるロシア運搬船の入港禁止措置の解除」なども、仮に受け入れられれば、農産物に限らず、輸出全体の増加をもたらすだろう。

しかし、そうしたロシアの真の狙いを理解している先進国が、ロシアの求めに応じて制裁措置の緩和に乗り出す可能性はかなり低い。先進国は、迂回輸出など制裁逃れによって対ロ制裁の効果が削がれていることを問題視しており、依然として制裁を強化することを志向しているのである。

(参考資料)
「中東・北アフリカの穀物輸入業者、黒海輸送路閉鎖に反応冷静」、2023年7月21日、ロイター通信ニュース
「ウクライナ穀物の輸入規制延長=東欧5カ国が共同声明」、2023年7月20日、時事通信
「ロシアが警告 「ウクライナの港の船舶は軍事関連」輸出を牽制」、2023年7月21日、テレ朝news
「【社説】ロシアの穀物合意巡る恐喝に対抗せよ」、2023年7月19日、ウォールストリート・ジャーナル
「ロシア、黒海での航行に危険と警告 小麦価格は急騰」、2023年7月21日、日本経済新聞電子版
「ロシア、穀物合意停止で揺さぶり 金融制裁緩和を要求」、2023年7月18日、日本経済新聞電子版

プロフィール

  • 木内 登英のポートレート

    木内 登英

    金融ITイノベーション事業本部

    エグゼクティブ・エコノミスト

    

    1987年に野村総合研究所に入社後、経済研究部・日本経済調査室(東京)に配属され、それ以降、エコノミストとして職歴を重ねた。1990年に野村総合研究所ドイツ(フランクフルト)、1996年には野村総合研究所アメリカ(ニューヨーク)で欧米の経済分析を担当。2004年に野村證券に転籍し、2007年に経済調査部長兼チーフエコノミストとして、グローバルリサーチ体制下で日本経済予測を担当。2012年に内閣の任命により、日本銀行の最高意思決定機関である政策委員会の審議委員に就任し、金融政策及びその他の業務を5年間担った。2017年7月より現職。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。