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物価上昇率と賃金上昇率のトレンドには1.5%~2.0%程度のギャップ

今年の春闘は、3月13日に主要企業の集中回答日という山場を迎える。筆者は、主要企業の賃上げ率は昨年の+3.6%を上回る+3.9%(ベア+2.5%)と予想してきたが、実際の賃上げ率はこれをかなり上回る可能性があるだろう。

しかしそれでもなお、達成には手が届かないことが2点ある。第1は、実質賃金のプラス転換、第2は、2%の物価目標の達成、だ。

厚生労働省が3月7日に公表した1月分毎月勤労統計で、実質賃金は前年同月比-0.6%となり、下落幅は12月の同-2.1%から大きく縮小した。しかし、これで実質賃金がプラスに転じる時期が近付いた、と考えるのは誤りだ。

1月の実質賃金上昇率の下落幅が大きく縮小したのは、主に2つの要因による。第1は、振れの大きいボーナスなど一時金の「特別に支払われた給与」が、前年同月比+16.9%と大きく上振れたことだ。他方、より安定した動きをする基調部分の所定内賃金は、前年同月比+1.4%と前月と同水準であり、賃金の基調的な動きには変化は見られない。

第2は、実質賃金を算出するのに用いられる消費者物価指数(持ち家の帰属家賃を除く総合)が、前年同月比+2.5%と前月の+3.0%から下振れたことだ。これは宿泊料の下振れなどによるところが大きいが、他方で、前年の政府の物価抑制策の反動から、2月分で同指数は、再び+3%を上回ることが見込まれる。

所定内賃金上昇率のトレンドが前年比+1.5%弱程度、物価上昇率(持ち家の帰属家賃を除く総合)のトレンドが前年比+3.0%強であるとすると、実質賃金上昇率のトレンドはなお前年比-1.5%~-2.0%程度となる。春闘での賃上げ率が予想外に上振れるとしても、このギャップを一気に埋めることはできない。

実質賃金が前年比でプラスに転じるためには、消費者物価上昇率が1%を割る水準まで低下することが必要だろう。その時期は、2025年下期になると見ておきたい。

物価・賃金上昇率に大きな影響を与える労働生産性上昇率

賃金上昇率は、物価上昇率の影響を大きく受ける。既にコアCPI(消費者物価指数)は、2023年1月の前年同月比+4.2%から、2024年1月には+2.0%まで大きく低下している。前年のエネルギー補助金の反動で、2月のコアCPIは+2%台後半まで再び上昇することが見込まれるが、今年の年末にかけては2%割れが定着し、来年の後半には1%を割り込むと予想する。その影響から、賃金上昇率も下振れていくだろう。

ただし、その過程で実質賃金は上昇に転じ、経済は安定を取り戻していく。物価と賃金の相乗的な上昇ではなく、ともに緩やかに低下していくことが、経済の安定にはプラスとなるだろう。

企業が持続的に消費財の価格を引き上げていくには、個人消費の基調が安定していることが必要だ。そして個人消費の安定には、実質賃金の上昇が欠かせない。さらに、分配に変化がない場合、実質賃金の上昇率は労働生産性上昇率の上昇に一致する。

つまり、「労働生産性の上昇」⇒「実質賃金の上昇」⇒「個人消費の安定」⇒「物価の上昇」⇒「賃金の上昇」という流れで、物価と賃金が決定されていく傾向があると考えられる。輸入物価の大幅な上昇で、現時点では物価上昇率は上振れ、それが賃金上昇率の上振れをもたらしている。また、中長期のインフレ期待も、個人を中心に上振れているとみられる。

しかしそれらは持続的なものではなく、いずれ、労働生産性上昇率など実体経済のファンダメンタルズに沿った水準へと落ち着いていくことが予想される。

2%の物価目標の達成は実際には難しい

ところで、物価上昇率のトレンドが+2%程度であったのは、90年代初めが最後である。その際には、労働生産性上昇は前年比で+3.5%程度だった。それは、実質賃金上昇率のトレンドが+3.5%程度であったことを示唆する。そして、物価上昇率のトレンドが+2%程度であったことから、名目賃金上昇率のトレンドは+5.5%程度となる。

平均名目賃金上昇率は、定期昇給分を含まない基本給の上昇率、つまりベアに概ね相当する。その水準が、昨年実績の+2%強から+5%台半ばまで大幅に高まり、それが持続するような状況にならない限り、物価上昇率が+2%程度で安定するのは難しいのではないか。

そもそも、物価上昇率に大きな影響を与える労働生産性上昇率は、90年代初めの+3.5%程度に対して、現状では+0.5%程度にとどまると考えられる。このような経済環境の下で、物価上昇率が+2%程度の水準で安定することは困難だろう。

それでも日本銀行は、春闘での賃上げ率の上振れを根拠に、2%の物価目標の達成を宣言し、3月にもマイナス金利政策解除に踏み切ることが予想される。これはいわば見切り発車であるが、物価、賃金が上振れている今のタイミングを逃さずに、相応の副作用を持つ異例の金融緩和の正常化に着手したい、という考えが、日本銀行にあるためではないかと考えられる。

日本銀行が、実際には難しい2%の物価目標の達成を宣言し、マイナス金利政策解除に踏み切れば、それは日本銀行の先行きの金融政策正常化についての金融市場の不確実性を高め、金融市場の不安定化を増幅する、という問題を生んでしまうのではないか(コラム「 株価大幅続落と日銀マイナス金利政策解除後の不確実性 」、2024年3月12日)。

プロフィール

  • 木内 登英のポートレート

    木内 登英

    金融ITイノベーション事業本部

    エグゼクティブ・エコノミスト

    

    1987年に野村総合研究所に入社後、経済研究部・日本経済調査室(東京)に配属され、それ以降、エコノミストとして職歴を重ねた。1990年に野村総合研究所ドイツ(フランクフルト)、1996年には野村総合研究所アメリカ(ニューヨーク)で欧米の経済分析を担当。2004年に野村證券に転籍し、2007年に経済調査部長兼チーフエコノミストとして、グローバルリサーチ体制下で日本経済予測を担当。2012年に内閣の任命により、日本銀行の最高意思決定機関である政策委員会の審議委員に就任し、金融政策及びその他の業務を5年間担った。2017年7月より現職。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。