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大企業に遅れる中小企業の賃上げ支援

政府が6月下旬に閣議決定をする「骨太の方針(経済財政運営と改革の基本方針)2024」の原案が明らかになった。

今年の春闘では、予想外に高い賃上げ率が実現したが、骨太の方針2024ではさらなる賃上げを目指す政府の姿勢が示される。骨太の方針での政府の賃上げについての方針は、成長戦略として掲げられている「新しい資本主義実行計画」の改定案と同時並行的に議論が進められている。6月21日には、骨太の方針と新しい資本主義実行計画の改定が、同時に閣議決定される見通しだ。

6月7日に政府が示した新しい資本主義実行計画改定案では、中小企業の賃上げ支援に焦点が当てられた。今年の春闘では、全体として高い賃上げが実現されたものの、大企業と中小企業の格差が依然として目立ったためだ。

そこで今年の改定案には、下請法の運用厳格化が盛り込まれ、中小企業がコストの上昇分を価格に転嫁しやすくし、賃上げの原資を確保しやすい環境を作ることが重視された。

岸田首相は新しい資本主義実現会議で、「来年以降に物価上昇を上回る賃上げを定着させるべく、政府を挙げて取り組みを強化する」と強調した。しかし、企業に賃上げを求めるだけでは、国民生活の向上や経済成長率の向上につながる持続的な実質賃金上昇は実現できない。

持続的な実質賃金の上昇には労働生産性の向上が必要

海外市場での食料・エネルギー価格高騰、円安進行を受けて、2021年以降、輸入物価は大幅に上昇した。日本は歴史的な「輸入インフレ・ショック」に見舞われたのである。

これは、国内物価を大きく押し上げたが、一方で賃金の上昇は遅れたため、実質賃金は大きく低下し、労働者の所得の取り分、つまり労働分配率は大幅に低下してしまった。これが、足下で続く異例な個人消費の弱さの背景だ。

今年の春闘での高い賃上げは、「輸入インフレ・ショック」を受けて企業に偏ってしまった分配を労働者に戻す正常化の第一歩と理解できるだろう。しかし、実質賃金の水準及び労働分配率が「輸入インフレ・ショック」前の水準に戻ってもなお、物価上昇率を上回る高い賃上げを続ければ、今度は、分配が企業から労働者に過度に偏るようになり、実質賃金の上昇が企業収益を圧迫してしまう。その結果、企業は設備投資や雇用を抑制するようになり、経済活動は悪化してしまうだろう。

国民生活の改善と経済成長を支える持続的な実質賃金の上昇を実現するためには、労働生産性の向上は必要であり、そのための努力を企業、労働者ともに実施することが求められる。

「三位一体の労働市場改革」に期待

新しい資本主義実行計画の改定案によると、労働生産性を向上させるために、省力化に役立つAIやロボットなど自動化技術の導入を促進し、特に人手不足が深刻な運輸業、宿泊・飲食業を中心に利用を働きかける。

さらに労働生産性の向上を持続的な実質賃金の上昇と成長力強化につなげるためには、労働市場改革が重要だ。この労働市場改革は、骨太方針にも盛り込まれる。

若い労働者やデジタル化で仕事を失う恐れがあるホワイトカラーには、専門知識の習得やリスキリング(学び直し)を政府が支援する。産学が連携して最先端知識を身につける新プログラムを立ち上げ、25年度中に3千人の参加をめざすという。

また従来型の年功序列型の賃金体系である「職能給」から、企業内で職務を明確にして成果重視で処遇する「職務給」、つまり「ジョブ型」の拡大を促す。政府は、先行導入した約20社の取り組みを紹介する事例集をつくり、今夏にも公表するという。

そして、リスキリングで技能を高めた労働者が、それを生かすために他企業、他業種に転職することも政府は支援する。それによって、高成長産業に労働者が移動し、産業構造の高度化と成長率の向上が図られる。労働生産性上昇、実質賃金の上昇につながるリスキリング、ジョブ型の導入、労働市場の流動化は、岸田政権が従来掲げてきた「三位一体の労働市場改革」である。政府は、労働市場改革を進めるため国民会議を開催するという。

「三位一体の労働市場改革」が成果を十分に発揮できれば、労働生産性の向上、実質賃金の上昇が実現され、将来の生活見通しが改善するだろう。それは、少子化対策の一環にもなるのではないか。さらに成長力が強化されれば、財政環境の改善、社会保障制度の持続性、安定性にもプラスとなる。

「新しい資本主義」のいわば総仕上げとして、岸田政権にはこの「三位一体の労働市場改革」に全力で取り組んで欲しい。

(参考資料)
「政府の「骨太の方針」原案が判明 賃上げとリスキリングを後押し」、2024年6月10日、朝日新聞ニュース
「新資本主義 中小賃上げ 柱 政府 実行計画を再改定」、2024年6月8日、静岡新聞
「中小の賃上げ定着へ 政府、「新資本主事実行計画」改定案」、2024年6月11日、日刊工業新聞Newsウェーブ

プロフィール

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    木内 登英

    金融ITイノベーション事業本部

    エグゼクティブ・エコノミスト

    

    1987年に野村総合研究所に入社後、経済研究部・日本経済調査室(東京)に配属され、それ以降、エコノミストとして職歴を重ねた。1990年に野村総合研究所ドイツ(フランクフルト)、1996年には野村総合研究所アメリカ(ニューヨーク)で欧米の経済分析を担当。2004年に野村證券に転籍し、2007年に経済調査部長兼チーフエコノミストとして、グローバルリサーチ体制下で日本経済予測を担当。2012年に内閣の任命により、日本銀行の最高意思決定機関である政策委員会の審議委員に就任し、金融政策及びその他の業務を5年間担った。2017年7月より現職。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。