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実質賃金のプラス基調定着は9月か

厚生労働省が9月5日に発表した7月分毎月勤労統計で、実質賃金は前年同月比+0.4%と2か月連続でプラスとなった。ただし、6月の同+1.1%からはプラス幅を縮小させた。

実質賃金はプラス基調に転じつつあるが、まだ完全に転じたとは言えないだろう。2か月連続での実質賃金の上昇は、ボーナスなどの「特別に支払われた給与」の上振れによるところが大きく、基調的な賃金を示す所定内賃金で計算すると、実質賃金はまだプラスに転じていない。統計のぶれだけでなく、夏のボーナスも相応に上振れた可能性はあるが、それでも「特別に支払われた給与」は振れが大きい部分だ。次回8月分では、実質賃金は再びマイナスになる可能性があるだろう。

実質賃金はプラス基調に転じたと判断できるのは、所定内賃金の前年比が消費者物価指数(持ち家の帰属家賃を除く)の前年比を上回った時点、と考えたい。所定内賃金は、7月に前年同月比+2.7%と、6月の同+2.2%を大きく上回り、春闘での高い賃上げ率の反映が進んでいることを確認させた。

8月の所定内賃金は前年同月比+3.0%程度まで上昇し、春闘での高い賃上げ率の反映が概ね完了することが予想される。他方、7月の消費者物価指数(持ち家の帰属家賃を除く)の前年比は+3.2%と、その水準をわずかに上回っている。8月の東京都区部消費者物価指数からの推定では、8月の消費者物価指数(持ち家の帰属家賃を除く)の前年比は+3.3%程度まで上昇すると見込まれる。その場合、「特別に支払われた給与」の上振れが続かなければ、8月の実質賃金は前年比で再びマイナスになる計算だ。

ところが、政府が復活させた電気・ガス料金の補助金制度の影響で、9月分の消費者物価指数は前年比で0.5%程度押し下げられる。この9月の時点で、所定内賃金の前年比は消費者物価指数(持ち家の帰属家賃を除く)の前年比を上回り、実質賃金のプラス基調が定着するものと見ておきたい。

実質賃金のプラス化だけでデフレ脱却宣言は難しい

いずれにせよ、長らく低下を続けてきた実質賃金はプラス基調に転じつつあることは確かである。ただし、過去数年の物価高騰の影響から、実質賃金の水準はかなり低く、その状態は短期間では解消されない。従って、実質賃金はプラス基調に転じてもすぐに個人消費に好影響が及ぶとは限らない。

日本銀行の金融政策は、物価動向、個人消費動向、為替動向に大きく影響されるだろう。実質賃金のプラス転換は既に予想されていたことであり、追加利上げ実施時期の判断には大きな影響を与えないと考えられる。

他方で注目されるのは、政府の「デフレ脱却宣言」への影響だ。政府は、デフレ脱却は、「消費者物価」、「GDPデフレータ」、「需給ギャップ」、「単位労働コスト」の4つの指標が安定的にプラスになることを条件としてきた。

内閣府は、今年4-6月期の需給ギャップ((実際のGDP-潜在GDP)/潜在GDP)は-0.6%と、4四半期連続でマイナスになったと推計している。このため、デフレ脱却の4条件は満たされていない。

他方で、実質賃金も、デフレ脱却宣言を出せるかどうかの鍵を握る重要指標と考えられてきた。しかし、実質賃金がプラスに転じただけで、政府がデフレ脱却宣言を出すのは難しいのではないか。それは国民の理解を得られないからだ。

デフレ脱却とは、物価が継続的に下落している状態から脱することを意味するが、国民にとって現在の物価上昇は、政府が目指してきた「良い物価の上昇」ではなく、個人消費を圧迫する「悪い物価の上昇」だ。物価上昇を望んではいない、デフレと呼ばれている時期の方が、物価が安定していて良かったと考える向きも少なくないだろう。

実質賃金がプラスに転じたことだけをもって、政府がデフレ脱却宣言を出せば、「物価高の影響で国民の生活は厳しい」との強い反発を呼ぶことになるのではないか。政府としては、経済政策の成果をアピールするためにデフレ脱却宣言を出したいと考えるが、逆に国民からの強い反発を受けて、政治的には失点となりかねない。それゆえに、岸田政権もデフレ脱却宣言を出せなかったのである。

4日に自民党総裁選への立候補を表明した茂木幹事長は、実質賃金のプラスを定着させて「半年以内に必ずデフレ脱却宣言を行う」と宣言した。実質賃金のプラスは定着するだろうが、個人が物価高騰の打撃を克服し、生活が安定を取り戻したと考えるには半年という時間は十分ではないのではないか。

結局、新政権下での早期のデフレ脱却宣言は難しいと考える。国民目線も含めて、総裁選では、「デフレ脱却宣言」を巡る議論も活発になされていくことを期待したい。

プロフィール

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    木内 登英

    金融ITイノベーション事業本部

    エグゼクティブ・エコノミスト

    

    1987年に野村総合研究所に入社後、経済研究部・日本経済調査室(東京)に配属され、それ以降、エコノミストとして職歴を重ねた。1990年に野村総合研究所ドイツ(フランクフルト)、1996年には野村総合研究所アメリカ(ニューヨーク)で欧米の経済分析を担当。2004年に野村證券に転籍し、2007年に経済調査部長兼チーフエコノミストとして、グローバルリサーチ体制下で日本経済予測を担当。2012年に内閣の任命により、日本銀行の最高意思決定機関である政策委員会の審議委員に就任し、金融政策及びその他の業務を5年間担った。2017年7月より現職。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。