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各党は最低賃金の引上げを選挙公約に掲げる

衆院選で各党は、賃金上昇を通じて個人消費を喚起する方針を公約に掲げている。ただし、実際の賃金水準は労使が決めるものであることから、各党が賃金に具体的な目標値を設定することはなじまない。そこで、政府が影響力を行使できる最低賃金を特定水準へ引き上げることを各党は公約として打ち出している(コラム「衆院選での各党経済政策比較:日本経済の将来像と中長期的な改革・戦略の具体策を国民に」、2024年10月15日)。

石破首相は自民党総裁選時に、「2020年代に全国平均1,500円」に引き上げるという目標を掲げた。現在の政府目標である2030年代半ばから前倒しとなる。ただし、この目標については、今回の自民党の選挙公約には書かれていない。公約では賃金について、「物価に負けない賃上げと最低賃金の引上げ加速」とのみ記されている。

ちなみに、2024年度の最低賃金の全国平均は1055円である。これを2029年度に1500円まで引き上げるためには、この先5年間の平均引き上げ率を7.3%程度にする必要が生じる。かなり急速なペースでの引き上げとなる。

他方、最低賃金の1,500円への引き上げは、他党も掲げる一種のスタンダードとなっている。公明党は、最低賃金を5年以内に全国平均1,500円に引き上げるとしている。それを通じて賃上げの勢いを中間所得層へ波及させ、物価上昇を上回る賃上げを実現するとしている。

立憲民主党は、「分厚い中間層」を復活させるとしたうえで、最低賃金を1,500円以上とし、適切な価格転嫁で賃金の底上げを実現するとしている。

共産党は、最低賃金を時給1,500円以上に引き上げ、地方格差をなくし全国一律最低賃金制を確立するとしている。また、時間外や休日の労働の上限を規制し、1日2時間を超える残業割増率を50%に引き上げるとする。

れいわ新選組は、全国一律の最低賃金1500円を導入するとしている。

社民党は、全国一律で最低賃金を1500円に引き上げるとし、非正規雇用の正規雇用への転換を促進するとしている。

多くの政党が同時に最低賃金1500円までの引き上げを主張するのは奇異な感じがするが、最低賃金1000円が既に実現したため、次の目標として1500円を掲げているのだろう。

最低賃金は社会政策の一環

安倍政権の時から、政府は最低賃金の引き上げを通じて賃金全体を底上げすることを目指してきた。しかし、政府そして与野党が最低賃金の目標を掲げるのは、必ずしも適切でないように思われる。

最低賃金は、最低賃金審議会において、賃金の実態調査結果など各種統計資料を十分に参考にしながら審議を行い決定される。最低賃金審議会は、公益代表、労働者代表、使用者代表の各同数の委員で構成されるが、そのうち公益代表を通じて、政府はその決定に、事実上大きな影響力を発揮できる。

ただし、厚生労働省によれば、最低賃金は、(1)労働者の生計費、(2)労働者の賃金、(3)通常の事業の賃金支払能力を総合的に勘案して定めるものとされており、「労働者の生計費」を考慮するに当たっては、労働者が健康的で文化的な最低限度の生活を営むことができるよう、生活保護に係る施策との整合性に配慮することとされている。

最低賃金は、賃金の底上げを図る経済政策として位置付けられるものでなく、最低賃金で働く人に適切な生活を保障することや、最低賃金で働く人とそれ以外の働き手との間の所得格差を縮小させるという社会政策の一環であるはずだ。

最低賃金法第1条においても、「この法律は、賃金の低廉な労働者について、賃金の最低額を保障することにより、労働条件の改善を図り、もつて、労働者の生活の安定、労働力の質的向上及び事業の公正な競争の確保に資するとともに、国民経済の健全な発展に寄与することを目的とする」と謳われている。

急速な最低賃金引き上げの弊害

労働者の生活水準は、名目の賃金の水準で決まるのではなく、物価水準との比較、つまり実質賃金で決まる。この点から、将来の物価動向が予見できない中で、最低賃金の名目水準に政府目標を設定するのは適切でない。

仮に、この先物価上昇率が高まらない中で、急速に最低賃金を引き上げていけば、最低賃金近傍で働く人の実質賃金は急速に高まるが、一方で、そうした人を多く雇用する企業では、人件費が急速に高まり、企業収益が圧迫され、経営破綻に追い込まれる、また雇用の削減を余儀なくされる可能性がでてくる。それは、最低賃金水準で働く人にはむしろ逆風となってしまう。その結果、経済が不安定になる恐れもある。

最低賃金は物価動向や平均的な賃金動向を踏まえて、後から決定されるものであり、それらから独立した目標とすべきものではないだろう。

目指すべきは構造的賃上げ

各党は、最低賃金の引き上げを目指すのではなく、実質賃金が上昇する経済環境を作り出すことを第1に目指すべきだ。それが、岸田前政権が掲げた「構造的賃上げ」の実現である。そのためには、労働市場改革などを通じた労働生産性向上が欠かせない。

今回の自民党の選挙公約では、リスキリング、ジョブ型雇用の促進、労働移動の円滑化からなる労働市場改革が掲げられている。これは、岸田政権の「三位一体の労働市場改革」を継承したものであり、この点は適切だ。

プロフィール

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    木内 登英

    金融ITイノベーション事業本部

    エグゼクティブ・エコノミスト

    

    1987年に野村総合研究所に入社後、経済研究部・日本経済調査室(東京)に配属され、それ以降、エコノミストとして職歴を重ねた。1990年に野村総合研究所ドイツ(フランクフルト)、1996年には野村総合研究所アメリカ(ニューヨーク)で欧米の経済分析を担当。2004年に野村證券に転籍し、2007年に経済調査部長兼チーフエコノミストとして、グローバルリサーチ体制下で日本経済予測を担当。2012年に内閣の任命により、日本銀行の最高意思決定機関である政策委員会の審議委員に就任し、金融政策及びその他の業務を5年間担った。2017年7月より現職。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。