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日本経済新聞によると、政府は2029年までの5年間で、経済全体で実質賃金を年1%上昇させる目標を掲げるという。14日の新しい資本主義実現会議でその方針を示す。
 
昨年以来、名目賃金の上昇率は30数年ぶりの高水準に達している。しかしながら、こうした高めの賃金上昇率も物価上昇率には追いついておらず、実質賃金上昇率の低下傾向が続いている。今年3月の実質賃金は前年同月比-2.1%と、2月の-1.5%から予想以上にマイナス幅を拡大させた。
 
物価上昇率は今後低下が見込まれるが、一方で、トランプ関税の影響から中小零細企業が賃上げの動きを弱めれば、実質賃金が前年比でプラスになる時期は年後半へとずれ込み、個人消費への逆風が続くことになるだろう。
 
こうした事態を受けて政府は、名目賃金上昇率ではなく、個人消費により大きな影響を与える実質賃金上昇率に明確な目標を定める方針に傾いたのだろう。
 
しかしこの目標には課題がある。労働分配率が安定しているもとでは、実質賃金上昇率のトレンドは、労働生産性上昇率のトレンドと一致する、つまり実質賃金は労働生産性で決まるため、それ自体を目標にすることには無理がある。
 
さらに、この目標を個々の企業が指針とするのは難しいだろう。個々の企業にとっても、長い目でみれば実質賃金上昇率は労働生産性上昇率に一致する。しかし、その場合の実質賃金上昇率とは、個々の企業の名目賃金上昇率から彼らの製品の価格上昇率を引いたものである。全国の消費者物価上昇率で個々の企業の実質賃金上昇率が決まる訳ではない。
 
春闘であれば、連合が示す賃上げ方針が多くの企業の共通指針となるが、個々の企業では製品の価格上昇率が異なり、また労働生産性上昇率の水準にも大きな違いがあるため、統一した実質賃金上昇率の基準を企業に浸透させることは不可能だ。政府が1%の実質賃金上昇率の目標を掲げても、企業にとっては、その実現のために自社が何をすればよいのか困惑するばかりだろう。
 
実質賃金上昇率のトレンドに一致する労働生産性上昇率のトレンドは、現在0%台半ば程度と考えられる。これを1%まで引き上げるには、労働生産性上昇率を高めるような経済の構造変化が必要となる。
 
岸田前政権は、労働市場改革などを通じて労働生産性上昇率を高め、それが実質賃金上昇率の向上に自然とつながるような、「構造的賃上げ」を掲げた。石破政権も、成長戦略、構造改革を通じた生産性向上に目標を据えるべきだ。実質賃金上昇率の向上は、その成果として結果的に実現されるものである。
 
(参考資料)
「実質賃金、年1%上げ目標」、2025年5月14日、日本経済新聞

プロフィール

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    木内 登英

    金融ITイノベーション事業本部

    エグゼクティブ・エコノミスト

    

    1987年に野村総合研究所に入社後、経済研究部・日本経済調査室(東京)に配属され、それ以降、エコノミストとして職歴を重ねた。1990年に野村総合研究所ドイツ(フランクフルト)、1996年には野村総合研究所アメリカ(ニューヨーク)で欧米の経済分析を担当。2004年に野村證券に転籍し、2007年に経済調査部長兼チーフエコノミストとして、グローバルリサーチ体制下で日本経済予測を担当。2012年に内閣の任命により、日本銀行の最高意思決定機関である政策委員会の審議委員に就任し、金融政策及びその他の業務を5年間担った。2017年7月より現職。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。