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政策姿勢の調整が正当化される

世界の注目を集めたジャクソンホール会議で、パウエル米連邦準備制度理事会(FRB)議長は政策転換、つまり利下げの再開を示唆した。この発言内容は事前に想定されていたことではあったが、金融市場はFRBの9月の利下げ実施を織り込み、ドル円レートは直後に1ドル148円台半ばから146円台半ばへと大幅にドル安・円高が進んだ。また、米国株及び米国債は大幅高となった。
 
今回のジャクソンホール会議のテーマは労働市場(転換期の労働市場-人口動態、生産性、マクロ経済政策:Labor Markets in Transition — Demographics, Productivity and Macroeconomic Policy)であったが、まさに、雇用者数が事前予想を下回り、さらに過去2か月にわたって大幅に下方修正された7月米国雇用統計をパウエル議長がどのように受け止め、金融政策にどのように反映させるのかが講演の大きな注目点だった。
 
まずパウエル議長は、関税に起因する物価高のリスクについては、一時的な側面が強い一方、持続的にインフレリスクを高める可能性もあることから警戒を緩めないという従来の姿勢を維持した。
 
他方、労働市場については、労働供給と需要が共に縮小しており、その結果失業率で示される労働需給には大きな変化が生じていないという特殊な状況にあることを指摘した。失業率は安定を維持していることを重視して、パウエル議長は雇用のリスクについては判断を大きく変化させないとの見方も事前には聞かれた。しかし実際にはパウエル議長は、雇用の下振れリスクは高まっているとの判断を明確に示した。
 
「政策金利が引き続き景気抑制的な水準にある中、雇用の極大化と物価の安定の2つの使命のバランスがシフトしたため、政策姿勢の調整が正当化されるだろう(with policy in restrictive territory, the baseline outlook and the shifting balance of risks may warrant adjusting our policy stance)」と説明した。これは、9月16~17日の次回連邦公開市場委員会(FOMC)での利下げ実施を示唆したものと考えてよいだろう。

トランプ大統領への抵抗のメッセージか

そして以上に続く発言が、今回のパウエル議長の講演の中で最も重要なメッセージを含むと考えられる。
 
「金融政策は、あらかじめ定められた道筋にあるわけではない(Monetary policy is not on a preset course.)」。「FOMCメンバーは、データの評価とその経済見通しおよびリスクバランスへの影響に関する評価のみに基づいて、これらの決定を行う(FOMC members will make these decisions, based solely on their assessment of the data and its implications for the economic outlook and the balance of risks.)」。「我々はこのアプローチから決して逸脱することはない(We will never deviate from that approach.)」。
 
ここでは、金融政策は客観的な経済データに基づいて判断され、決定されるものだということが強調されている。これは、今回パウエル議長が示唆した政策転換は、トランプ大統領によるFRBへの不当な政治介入に屈した結果ではなく、今後もFRBは政治介入に抵抗していくという議長の悲痛なメッセージが込められているのではないか。

9月のFOMCでは票が大きく割れる歴史的な会合となる可能性も

さらに、この発言には別の意味が含まれている可能性もあるように思われる。それはFOMCでは参加者がそれぞれ独自の判断に基づいて投票を決めるということだ。その結果、9月の次回FOMCで金融政策についてどのような投票結果になるかはわからない、というパウエル議長のメッセージでもあるように思われる。
 
パウエル議長が今回示唆した政策の方針転換は、7月雇用統計がきっかけになったことは疑いがない。ただしそれだけではなく、前回7月のFOMCで1993年12月以来約32年ぶりに複数の理事による議長案への反対が出たことが、パウエル議長の危機感をかなり強めたに違いない。
 
票が割れることは、パウエル議長のリーダーシップの低下を示唆するとともに、FRB内が混乱、分裂しているとの印象を外部に与え、FRBの信認低下につながることをパウエル議長は恐れたのではないか。
 
パウエル議長が9月のFOMCで利下げ実施と利下げ見送りのどちらの議長案を出せば、票が大きく割れることを回避できるかを考えたうえで、パウエル議長は利下げを提案するとの考えを今回固めたように思う。パウエル議長は政治からの独立に加え、こうした観点からも、FRBの政策信認の維持を最も重視している。
 
しかし、パウエル議長が今回の講演を行う直前時点でのFOMC参加者の金融政策への考えには大きなばらつきがあり、パウエル議長も各参加者が次回FOMCでどのような投票行動を取るのかは見極め切れていないのではないか。
 
9月のFOMCは金融政策を巡って票が大きく割れる、歴史的な会合になる可能性もあるだろう。ただし、議長の後任人事も含め、この先トランプ政権によるFRBへの政治介入は一段と高まる。その結果、FOMC内での意見は金融緩和重視の方向に収れんしていくだろう。利下げに反対する意見によって9月のFOMCで票が大きく割れることがあれば、それは、FRBが政治に強くコントロールされてしまう前の最後の抵抗を象徴するものになるのではないか。

プロフィール

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    木内 登英

    金融ITイノベーション事業本部

    エグゼクティブ・エコノミスト

    

    1987年に野村総合研究所に入社後、経済研究部・日本経済調査室(東京)に配属され、それ以降、エコノミストとして職歴を重ねた。1990年に野村総合研究所ドイツ(フランクフルト)、1996年には野村総合研究所アメリカ(ニューヨーク)で欧米の経済分析を担当。2004年に野村證券に転籍し、2007年に経済調査部長兼チーフエコノミストとして、グローバルリサーチ体制下で日本経済予測を担当。2012年に内閣の任命により、日本銀行の最高意思決定機関である政策委員会の審議委員に就任し、金融政策及びその他の業務を5年間担った。2017年7月より現職。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。