&N 未来創発ラボ

野村総合研究所と
今を語り、未来をみつめるメディア

ウォーシュ議長の「合わせ鏡」論

米連邦準備制度理事会(FRB)のウォーシュ議長は2026年8月28日のジャクソンホールでの講演「In Our Time」で、「合わせ鏡(hall of mirrors)の問題」を提起した。
 
向かい合わせに置いた二枚の鏡には、同じ像が無限に映り続ける。一方、そこには新しいものは何も映らない。ウォーシュ議長が言う「合わせ鏡の問題」とは、この状況を中央銀行と金融市場の関係にあてはめたものだ。
 
ウォーシュ議長は、金融市場がFRBからの情報発信に過度に依存し、自ら経済・物価環境を踏まえた判断で価格形成を行わなくなる一方、FRBも金融市場の価格情報に過度に頼る状況になると、両者ともに新たな出来事に気づきにくくなり、FRBの政策判断ミスを招きやすくなる、と考える。
 
「合わせ鏡の問題」を広めたのは、理事時代のバーナンキ元FRB議長だ。バーナンキ氏は2004年4月の講演「What Policymakers Can Learn from Asset Prices」で、金融市場の期待に合わせる金融政策は合わせ鏡の問題に陥る、と述べている。
 
以下では、バーナンキ氏のこの講演テキストも含め、ウォーシュ議長の講演で合わせ鏡の問題に関連して引用された論文の趣旨を、筆者の解釈も踏まえてまとめる。

堂々巡りに陥るリスク:Bernanke (2004)

バーナンキ氏は、金融市場が予想している通りに中央銀行が政策を決めることを目標とする戦略は、すぐに合わせ鏡の問題に陥ると警告した。そして、中央銀行が金融市場の政策予想を見る意味は、市場の期待に政策を合わせるためではなく、中央銀行の説明がきちんと金融市場に伝わっているかを確かめることにあると位置づけている。
 
さらにBernanke and Woodford (1997)は、金融市場の予想に従って金融政策を決めると、理論上、経済の落ち着き先が一つに定まらなくなり得ることを示している。いわゆる堂々巡りの理論的な原型と言えるだろう。
 
中央銀行が「金融市場(民間)の物価予想が高ければ引き締め、低ければ緩和する」というルールで動くとする。一方、金融市場も中央銀行がこのルールに従って金融政策を行うことを知っている。
 
物価上昇率が高まってきていても、金融市場は「物価上昇率が高まると予想すれば、中央銀行が金融を引き締めるはずであり、その結果、物価上昇率は高まらないだろう」と考える。金融市場が物価上昇率は高まらないと予想すると、中央銀行は金融引き締めを行わない。その結果、物価上昇率は実際には高まってしまう、という政策ミスが起こってしまう。
 
金融市場の予想が中央銀行の行動を決め、中央銀行の行動が金融市場の予想を決めるという堂々巡りに陥ってしまうのである。
 
金融市場の予測には中央銀行にとって有用な情報が含まれているが、最終的には、中央銀行が独自の経済モデルを持ち、それに基づいて政策を決めるべきだ、というのがこの論文の結論だ。

中央銀行が提供する情報の影響力の大きさの問題:Morris and Shin (2002)

経済学者ケインズの「美人投票」のたとえでは、自分が美しいと思う人ではなく、みんなが選びそうな人に票を入れる。これと同じように、市場参加者が他の市場参加者の行動に合わせようとする場面では、中央銀行のような権威のある発信源が提供する情報が、市場参加者の共通の目印となり、それが過大に重視されてしまう。
 
その発表に少しでも誤りがあれば、誤りが市場参加者全員に一斉に広がってしまう。この論文は、条件によっては、公的な情報が増えることがかえって社会全体の利益を減らし得ると論じた。ただしSvensson(2006)は、現実的な条件のもとではそこまで悪くならないと反論している。

小出しの政策の問題:Stein and Sunderam (2018)

中央銀行は、金融市場が大きく動くことを嫌う。そこで、政策金利の望ましい方向や誘導水準についての考えが変わっても、市場を驚かせないために政策金利を少しずつしか動かさない傾向がある。
 
ところが、金融市場は中央銀行の少しずつの動きでも「大きな方針転換の始まりだ」と考え、強く反応してしまう。市場を驚かせまいとして中央銀行が政策を小出しにしても、金融市場は小出しの意味を深読みして、かえって大きく反応してしまう可能性がある。中央銀行の金融市場の安定への配慮は裏目に出てしまうのである。
 
このため、中央銀行が債券市場を気にしすぎない方が社会的には望ましい、というのがこの論文の結論だ。

ドットチャートの情報が古くなることの問題:Engstrom (2026)

この論文は、米連邦公開市場委員会(FOMC)が年4回発表するFOMC参加者の政策金利の見通し、いわゆるドットチャートについて分析している。
 
論文では、ドットチャートの見通しが、専門家のサーベイ、統計モデル、市場の指標などと比べてより予測誤差が小さい、つまり有用な情報であることが示されている。
 
一方で、年4回の発表であるため、情報が早期に古くなりやすい。金融市場の予想が古い見通しに引きずられると、新しい情報の織り込みが遅れ、また、新しい情報への反応を鈍らせてしまう可能性がある。

フォワードガイダンスの問題:Romer and Romer (2026)

FRBがコロナ禍後の物価上昇率の上振れへの対応が遅れたという2021年の経験は、フォワードガイダンスが状況の変化への素早い対応の妨げになり得ることを示唆する。FRBがフォワードガイダンスで事前に示した方針に縛られてしまった面がある。

2つの「合わせ鏡の問題」

このようにウォーシュ議長が講演で挙げた論文を並べると、合わせ鏡は二つの鏡に分けられる。第1は、中央銀行が金融市場から得る情報という鏡である。中央銀行が金融市場の反応を過度に警戒して政策を歪めてしまったり、市場価格を情報源として参照しながら、その価格には中央銀行自身の見通しがすでに混ざっていたりすることなどの問題だ。こうした問題は、Bernanke (2004)、Stein and Sunderam (2018)が扱っている。
 
第2は、金融市場が中央銀行から受け取る情報という鏡である。市場参加者の共通の目印になり、過大に重視されてしまうことや、中央銀行の古い見通しにとらわれてしまうという問題は、Morris and Shin (2002)とEngstrom (2026)がそれぞれ扱っている。
 
この2つの鏡が組み合わされると、問題はより深刻になる。金融市場の価格に価値があるのは、多くの参加者がそれぞれ独自の情報を持ち寄って、その平均が価格に表れるからだ。
 
ところが参加者が、中央銀行が発信する情報に過度に依存すると、市場の価格は参加者の独立した判断の集まりではなく、FRBの見通しの写しに近づいてしまう。中央銀行がその価格を読めば、新たな情報ではなく自分の姿を見ているだけになる。議長が恐れているのは、この情報の独立性が失われることだと考えられる。

ウォーシュ議長の論点が抱える課題

最後に、合わせ鏡の問題を取り上げたウォーシュ議長が挙げた論文の内容を踏まえて、ウォーシュ議長の主張について課題を指摘したい。
 
第1は、中央銀行が発信する情報の質だ。Engstromの研究は、中央銀行のフォワードガイダンスに「精度を高めるプラスの効果」と「市場の反応を遅らせるマイナスの効果」の両方があることを指摘している。
 
平時に中央銀行がフォワードガイダンスを減らすべきかどうかは、両者のうち、どちらの効果がより大きいかで決まる。ウォーシュ議長は平時のフォワードガイダンスの弊害のみを強調するが、Engstromはそのような結論を導き出してはいない。Morris and Shinの結論も、中央銀行の情報の精度が高ければ逆になり得るだろう。
 
中央銀行が発する情報を一律に削減するのではなく、その質や精度に十分に配慮していくことで、その弊害を抑え、プラスの効果を高めることは可能だろう。
 
第2に、中央銀行が情報発信を絞って、いわば黙り込めば、鏡の問題がなくなるとは限らない。Stein and Sunderam (2018)の結論は、中央銀行が情報発信を絞ることではなく、中央銀行が債券市場の反応を過度に気にしないようにすることだ。
 
第3に、ウォーシュ議長の言動だ。今年7月のFOMC後の記者会見で、長期金利の急上昇を好ましいことのように語り、FRBが金融市場を通じた金融引き締め効果を歓迎しているとの印象を与えた。
 
他方で、物価上昇率が高い中で、7月のFOMCで利上げを見送った理由を明確に説明しなかったことが、金融市場の混乱と信認の低下を招いたと一部で批判された。
 
議長は中央銀行の影響を受けずに金融市場が独自に判断した結果の価格情報を重視すると述べる一方、この7月の発言は、市場の価格形成を中央銀行が歪める結果になったとも言えるのではないか。まさに金融市場が中央銀行から得る情報という鏡の問題だ。
 
第4は情報発信の工夫だ。Engstromの研究が示す問題の中核は「古くなった見通しへの固執」であるから、ガイダンスをやめるよりも、更新の頻度や形式の見直しなど、伝え方を改良することで問題は緩和できるだろう。
 
他方、金融市場は新たなドットチャートが公表されるまで、古いドットチャートの情報に固執するというのも、あまり現実的な想定ではないだろう。
 
ウォーシュ議長が提起した合わせ鏡の問題は、まったく新しい発見というより、Bernanke(2004)以来の警告に、公的情報の経済学、中央銀行の市場への過度の依存、ドットチャートの実証分析を加えたものと読める。ウォーシュ議長の指摘は理にかなった面はあるが、フォワードガイダンスをやめれば問題が解決するとは言えないだろう。
 
重要なのは、中央銀行の情報発信が、市場が独立した価格形成を妨げないように十分に配慮し、工夫することである。また、中央銀行自身が金融市場の反応に過度にとらわれずに自ら政策を判断することだろう。これらは、中央銀行と金融市場の対話を劇的に見直さなくても、工夫して改善することで、解決できる部分は多いのではないか。

プロフィール

  • 木内 登英のポートレート

    木内 登英

    金融ITイノベーション事業本部

    エグゼクティブ・エコノミスト

    

    1987年に野村総合研究所に入社後、経済研究部・日本経済調査室(東京)に配属され、それ以降、エコノミストとして職歴を重ねた。1990年に野村総合研究所ドイツ(フランクフルト)、1996年には野村総合研究所アメリカ(ニューヨーク)で欧米の経済分析を担当。2004年に野村證券に転籍し、2007年に経済調査部長兼チーフエコノミストとして、グローバルリサーチ体制下で日本経済予測を担当。2012年に内閣の任命により、日本銀行の最高意思決定機関である政策委員会の審議委員に就任し、金融政策及びその他の業務を5年間担った。2017年7月より現職。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。