&N 未来創発ラボ

野村総合研究所と
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代表取締役 社長 柳澤 花芽


先日、日本を代表する経営学者である野中郁次郎先生が亡くなられた。筆者がコンサルタントとして駆け出しの頃、野中先生の著書『知識創造企業』を拝読し、大変感銘を受けたことを今でも覚えている。組織が「暗黙知」を共有・形式知化することで新たな価値を生み出すというSECIモデルの考え方は、当時のコンサルティング業務の進め方を考え直す契機となった。

暗黙知で紡がれてきた、高品質な日本的サービス

実に30年も前の主張であるが、その本質は現代でも色あせておらず、たとえば、日本的なサービスの根底にもSECIモデルの考え方が根づいていると考えている。3分間隔で定時発着する新幹線、ナノ単位で精密に研磨する熟練工、多種多様なサービスを提供するコンビニエンスストア、旅館や空港のスタッフによるきめ細やかなおもてなしなどは、定められた作業プロセスのみならず、根底にある思想や哲学が従業員に浸透し、それらを日々改善する風土が備わっているからこそ実現できる、日本ならではの質の高いサービスといえる。

海外では、それらの日本的サービスを高く評価するものの、実践されている事例をあまり聞かない。その理由の一つとして、海外ではそのような気遣いを伴うオペレーションを創造する力や実行に移す力が備わっていないことが挙げられる。すなわち、「暗黙知の共同化のプロセス」を組織に実装するような風土が醸成されていないのである。
海外で日本的サービスが根づかないのには、もう一つの理由がある。それは、日本的サービスを海外に持ち込んだところで儲からないという極めてシンプルなものである。日本のサービス業は、しばしば生産性が低いと評される。時間当たり労働生産性の国際比較で見ると、日本はOECD加盟38カ国中の31位と低位に沈んでいるが、これは、働いた時間に見合った対価を十分に得られていない、言い換えれば価値を生み出さない労働に時間を費やし過ぎてしまっていることが原因とされている。物流業界における荷待ち時間や荷積み・荷降ろしなど「モノを運ぶ」以外の付帯労働がその典型例といえよう。
また、これらのきめ細かいサービスに至るまでにオペレーターが学習するコストやそれらを維持管理するためのコストなども看過できない。こうした表面には見えないコストが多層に積み上げられることにより、企業は収益力向上や従業員の所得向上につながらないまま、高品質なサービスを提供し続けられているのである。
こうしたことから、数多くの日本発のサービスは海外に移植するまでの魅力度はないと見なされ、国内でしか体験できない事態に陥っている。人口減少の加速に伴い、国内消費の縮小が明らかである中で、日本のサービス業は、このままでは内需依存型から脱却できない産業になってしまう。

AIによって拓かれる、サービス産業のグローバル展開

ただ、まだまだ逆転するチャンスは十分にあると筆者は考えている。そのトリガーとなるのがAIの活用であろう。日本だから、日本人だから提供可能とされてきたさまざまなきめ細かいサービスも、AIによって咀嚼され、効率的に実装されれば、日本国内での労働生産性向上のみならず、海外にも移植できる可能性がある。
その萌芽事例として、熟練工の技能伝承が挙げられる。従来、高度な技能習得においては「先輩の背中を見て技を盗む」が王道であった。このアプローチは、技術のさらなる磨き上げや技術漏洩防止には有効であったが、一方でスケールしないことや途方もなく時間がかかることが問題であった。これに対し、最近では、センサーの検知データ、カメラの撮影動画などの多様なデータを処理できるマルチモーダルAIによって、技能やプロセスの可視化が可能となっている。また、VRやARと組み合わせることによる現場でのリアルタイムガイダンスの提供も、LLMやRAGを組み合わせて知識や経験を補完することも可能である。このようにAI活用による伝承プロセスの変革が進む中、個人やグループで埋もれていた暗黙知をAIの力を借りて表出化させ、再現可能にすることで、世界中の見習い技能工が短期・低コストで熟練工になれる可能性が高まっている。
これはあくまでも一例であり、日本にはほかにもまだまだ高品質だが非効率なサービスがある。このようなサービスの暗黙知領域でAI活用が進めば、日本的サービスを海外で受け入れられる価格で提供することが可能となろう。さらに、オペレーションのみならず、付随するシステム、あるいはビジネスモデルそのものをまるごと輸出できれば、サービス業も外貨を稼ぐ産業として、日本経済を支え続けることができるのではないだろうか。

AI技術や応用シーンは日々、進化・拡張しており、完全代替ではなくとも強力なサポートツールとして活用することは十分に可能である。野村総合研究所(NRI)としても、デジタル産業を牽引するリーダーの1社として、日本経済の発展を見据え、サービス産業の持続的発展に向けて、コンサルティング、システム開発の両面から支援し続けたい。

プロフィール

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    柳澤 花芽

    代表取締役 社長

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