
執行役員 鳩宿 潤二
先日、自宅近くのケバブ屋で、店の柱に見慣れぬQRコードを見つけた。注文用かと警戒しつつ読み取ると、案の定、店とは無関係の不審なページに飛ばされた。利便性の追求は、同時にこれほどまでに脆弱な罠を社会に埋め込む。警察庁の統計によれば、特殊詐欺の被害額は2020年からの5年間で年平均約38%という異常な水準で拡大し、2025年には1400億円を超えた。名目賃金上昇率が同期間で年1~2%の上昇に喘ぐ間に、犯罪は20倍以上の速度で「産業」として成長している。便利さになじんだわれわれほど、こうした罠に吸い寄せられる。この身近な経験は、現代のデジタル社会の縮図といえる。
先端技術の時代に問われる「封印」の判断
生成AIを代表とする破壊的技術の社会実装が加速し、この構図が級数的に拡張する中、筆者が注目しているのは、最新技術の「公開」ではなく「封印」という現象だ。たとえばアンソロピックは、自社の責任あるスケーリング方針(RSP)に基づき、モデルの能力が一定の危険水準に達した場合、安全対策が完了するまで開発や公開を停止する判断を下している。実際に同社の最新モデルにおいては、未知のサイバー脆弱性を瞬時に発見してしまうほどの能力があるとの理由から、一般公開が見送られた。強大な力を、自社と少数の防衛的パートナーの間でのみ限定的に共有する道を選んだのである。
苛烈な競争の只中にあって、自社の最大の武器をあえて鞘に納める判断、この責任ある自制こそ、技術を持つ者の矜持かもしれない。野中郁次郎氏は、個別具体的な状況の中で善き判断を下す実践知を「賢慮(フロネシス)」と呼んだ。アンソロピックが示した判断は、まさに賢慮の発露の一例である。かつてのIT業界では「素早く動き、破壊と創造を繰り返せ」という変化スピード至上主義が称賛された。しかし、テクノロジーの力が社会基盤を根底から揺るがし得るレベルに達した今、企業や社会に問われるのは「何ができるか」ではなく「何をしないか」。強大さをコントロールする自制心や倫理観である。筆者はそれを「企業の品格」と呼びたい。AI時代において、賢慮なき技術行使は、節度を失った力の行使にほかならない。
強大な技術力を自制するその品格は、筆者が長らく身を置いてきた金融ビジネスの現場においても試金石となっている。デジタル金融の急速な進展とともに、金融と非金融の境界が消失し、利便性が高まる一方で、認証情報の窃取から証券口座の乗っ取りまで、金融犯罪が産業化する様相を呈している。昨年の金融セクターにおける不正アクセス被害は累計で約7400億円に達し、一企業の防衛力を超える脅威が日常化している。
苛烈な競争の只中にあって、自社の最大の武器をあえて鞘に納める判断、この責任ある自制こそ、技術を持つ者の矜持かもしれない。野中郁次郎氏は、個別具体的な状況の中で善き判断を下す実践知を「賢慮(フロネシス)」と呼んだ。アンソロピックが示した判断は、まさに賢慮の発露の一例である。かつてのIT業界では「素早く動き、破壊と創造を繰り返せ」という変化スピード至上主義が称賛された。しかし、テクノロジーの力が社会基盤を根底から揺るがし得るレベルに達した今、企業や社会に問われるのは「何ができるか」ではなく「何をしないか」。強大さをコントロールする自制心や倫理観である。筆者はそれを「企業の品格」と呼びたい。AI時代において、賢慮なき技術行使は、節度を失った力の行使にほかならない。
強大な技術力を自制するその品格は、筆者が長らく身を置いてきた金融ビジネスの現場においても試金石となっている。デジタル金融の急速な進展とともに、金融と非金融の境界が消失し、利便性が高まる一方で、認証情報の窃取から証券口座の乗っ取りまで、金融犯罪が産業化する様相を呈している。昨年の金融セクターにおける不正アクセス被害は累計で約7400億円に達し、一企業の防衛力を超える脅威が日常化している。
利便性と安全性の間で試される経営判断
こうした中、企業は岐路に立たされている。売上のために認証を緩めるか、売上を抑えてでも顧客の資産を守り抜くか。被害が生じた際、責任を顧客に帰すのか、自ら背負うのか。大手証券会社が相次ぐ不正取引事案に対し、利便性を犠牲にしてでも多要素認証を徹底し、被害顧客への真摯な対応を迅速に示したことは、顧客資産の保全を最優先する同業界の矜持の表れといえよう。その守りをITの力で支え、リスクをともに考え抜くことこそ、野村総合研究所(NRI)が担う「未来創発」の核心にほかならない。
筆者は事業戦略およびIRの責任者として、日々資本市場の最前線に立っている。そして対峙する投資家は今、困難な局面で「何をあえて拒絶するのか」というパーパスの深層まで、企業価値を担保する無形資産として厳しく評価している。MSCIの調査によれば、ESG評価上位の企業は下位企業に比べ資本コストが平均で約1%低く、危機局面における株価下落耐性も有意に高い。意志ある投資家は、お題目としてのESGではなく、企業価値を本質的かつ中長期に維持向上できるかという目線で見ている。注視するのは、単なる財務指標の積み上げだけではなく、何を選び、何をあえて手放すか、その戦略的判断を貫く「企業の品格」の重みである。
筆者は事業戦略およびIRの責任者として、日々資本市場の最前線に立っている。そして対峙する投資家は今、困難な局面で「何をあえて拒絶するのか」というパーパスの深層まで、企業価値を担保する無形資産として厳しく評価している。MSCIの調査によれば、ESG評価上位の企業は下位企業に比べ資本コストが平均で約1%低く、危機局面における株価下落耐性も有意に高い。意志ある投資家は、お題目としてのESGではなく、企業価値を本質的かつ中長期に維持向上できるかという目線で見ている。注視するのは、単なる財務指標の積み上げだけではなく、何を選び、何をあえて手放すか、その戦略的判断を貫く「企業の品格」の重みである。
技術の使い方と抑え方に企業の品格が宿る
技術の進化は止められない。しかし、その技術をどう使い、どう抑えるのかという問いは、われわれ自身の手元に残されている。街角のQRコード一つに、われわれは本能的に警戒の眼を向ける。ならば、社会の根幹を支える技術を扱う企業に、それ以上の制御を求められぬはずがない。
NRIは、シンクタンク、コンサルティング、ITソリューション、セキュリティサービスを柱とする事業群を一体として運営し、技術を過信せず、その力とリスクを同時に制御する。お客様の意思決定の傍らで、加速のアクセルと制御のブレーキ、その両輪を提示し続ける存在でありたい。われわれの掲げる未来創発とは、未来を単に速く創ることではない。技術の上に品格を据え、加速すべきものとあえて制御するものを見極め続けること。その静かな峻別の積み重ねが、信頼に足る未来を築くと信じている。
NRIは、シンクタンク、コンサルティング、ITソリューション、セキュリティサービスを柱とする事業群を一体として運営し、技術を過信せず、その力とリスクを同時に制御する。お客様の意思決定の傍らで、加速のアクセルと制御のブレーキ、その両輪を提示し続ける存在でありたい。われわれの掲げる未来創発とは、未来を単に速く創ることではない。技術の上に品格を据え、加速すべきものとあえて制御するものを見極め続けること。その静かな峻別の積み重ねが、信頼に足る未来を築くと信じている。
プロフィール
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鳩宿 潤二のポートレート 鳩宿 潤二
執行役員
東京工業大学 計算工学専攻 修了
University of Michigan Business School 修了。
2000年にNRI入社。
コンサルティング事業本部に入社後、営業開発部(新規ソリューションビジネス開発部署)、MBA留学を経て、2018年 金融コンサルティング部長に就任。
金融機関における、マーケティング、事業戦略、新サービス立上、事業会社における、金融サービスの立ち上げ・導入支援などを担当。
※組織名、職名は現在と異なる場合があります。