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金融ITイノベーション事業本部 エグゼクティブ・エコノミスト 木内 登英

貿易赤字の削減を目指してトランプ米政権が打ち出した関税策は、他国から強い反発を受けています。さらに、関税による輸入物価の上昇を懸念して、米国の企業や国民からも批判が高まっています。米国際貿易裁判所は2025年5月28日に、中国やメキシコ、カナダへの一律関税と相互関税を違法とする判決を出しました。この判決について、米連邦巡回区控訴裁判所は効力を一時的に停止する判断を下したため、関税策は失効していません。しかし同様の違法判決が今後増えることも予想されます。こうした逆風のなかトランプ政権は、関税策からドル安政策へと軸足を移していく可能性があります。

ブレトン・ウッズ体制の再編を目指す

関税策には行き詰まりが見え始めてきましたが、この関税策は、1944年のブレトン・ウッズ体制に始まる戦後の世界秩序を抜本的に変革しようとする、トランプ政権の壮大な構想の一部に過ぎない、とも言えます。関税策が行き詰まれば、トランプ政権は次の政策に重点を移していく可能性があるでしょう。それがドル安政策です。
ベッセント財務長官は「ブレトン・ウッズ体制の再編」を掲げ、①関税策を通じた消費大国から製造大国への米国経済の転換、②ドル高是正と基軸通貨の地位維持の両立、③同盟国との安全保障の応分負担、を主張しています。
こうした考え方の底流にあるのは、戦後の米国は、リーダーであるがゆえに他国から不当に過大な負担を押し付けられてきた、という認識です。トランプ大統領にとって、他国から不当に押し付けられた負担の象徴こそが巨額の米国貿易赤字であり、それゆえに、貿易赤字の解消に強い執念を持っているのです。

トリフィンの流動性ジレンマとは何か

ブレトン・ウッズ体制は、1920年代末に起きた世界恐慌が保護主義の蔓延を招き、第2次世界大戦の遠因にもなったことへの強い反省のもとに形作られたものです。そこでは、米国が主導する自由貿易の推進と安定した国際通貨・決済制度の構築を目指しました。
当初に作られたドルを基軸通貨とした金本位制は、1971年のニクソン・ショック(ドルと金との兌換停止)で崩れましたが、その後もドルは事実上の基軸通貨の地位を維持してきました。
ドルが事実上の基軸通貨であることによって、米国は過大な負担を他国から押し付けられてきたと主張するのが、トランプ大統領のブレーンであるスティーブン・ミランCEA(大統領経済諮問委員会)委員長です。彼の基本的な考えは、トランプ大統領やベッセント財務長官らにも共有されていると考えられます。
ミラン氏は自身の考えを、2024年11月に発表した論文”A USER’S GUIDE TO RESTRUCTURING THE GLOBAL TRADING SYSTEM”で示していますが、その中でミラン氏は、「トリフィンの流動性ジレンマ」に言及しています。
「トリフィンの流動性ジレンマ」とは、基軸通貨の流動性供給機能と信認の維持とが両立しないことを示す理論です。事実上の基軸通貨であるドルを例にとれば、多くの貿易がドル建てで契約されているため、貿易決済のためのドルへの需要が、世界中で高まります。それがドルの価値を過大に高め、米国の国際競争力を低下させて、貿易赤字、経常赤字の拡大を促します。
経常赤字の拡大は、その分、米国の対外債務が増加することを意味します。それこそが海外で必要とされるドルを供給する流動性供給機能に他なりません。しかし貿易赤字、経常赤字が拡大を続けると、供給過多となったドルへの信認が低下してしまいます。それはいずれ、ドルの基軸通貨としての地位を揺るがす可能性がでてくるのです。
このように、基軸通貨というのは本来矛盾を抱えた存在であり永続できない、というのが「トリフィンの流動性ジレンマ」の考え方です。しかし実際には、事実上のドルの基軸通貨制度は戦後から長く続いており、「トリフィンの流動性ジレンマ」が成立するのかどうか、本当のところはよく分かりません。
  • 兌換(だかん):一般的には「取り替えること」や「引き換えること」を意味する。特に、銀行券または政府紙幣を額面金額と同価値の金銀貨または金銀地金などの正貨と引き換えること。

関税策に次ぐ第2の施策が「マールアラーゴ合意」

しかしミラン氏は、「トリフィンの流動性ジレンマ」の理論に基づいて、ドルが事実上の基軸通貨であることで、米国は巨額の貿易赤字という過大な負担を負わされ、経済的な不利益を被っていると考えています。
ミラン氏は、米国が不当に負担を強いられてきた戦後の国際秩序を変換するための第一の施策として、関税策を位置付けています。実際、関税策を通じてトランプ政権は、行き過ぎたドル高によって低下した米国の国際競争力の回復を図り、貿易赤字の解消を目指しています。
それに次ぐ第2の施策がドル安政策、と位置付けられます。ミラン氏にとって関税策とドル安政策は、共に米国の国際競争力を回復し、米国の貿易赤字を解消させるための対となる政策です。トランプ大統領やベッセント財務長官も同様に考えているものと推察されます。
ミラン氏は、多国間通貨合意あるいは2国間通貨合意を通じて、ドル安政策を進めることを提案しています。その際、多国間通貨合意のモデルとしているのが1985年のプラザ合意です。ミラン氏は、「21世紀のプラザ合意」となるのが、トランプ政権が構想する新たな多国間通貨合意であるとして、それをトランプ大統領の別邸の名称にちなんで『マールアラーゴ合意』と表現しています。

トランプ政権は日本に円安の是正とドル安政策への協力を求めるか

現在、日米関税協議とは別に日米為替協議が進められていますが、いずれ両者は結びつけられ、トランプ政権が日本に対して、関税率引き下げの見返りに円安の是正、あるいはドル安政策への協力を求めてくる可能性も考えられるところです。
他国がプラザ合意の時のように、ドル売りの協調介入を実施して、ドル安政策に協力する可能性は現時点では低いと言えます。多国間通貨合意である「マールアラーゴ合意」の実現は困難なのです。
しかし日本は、安全保障政策で米国に依存するという弱みを持つことから、トランプ政権にとってはドル安政策への協力を求めやすい、いわば与しやすい国であると言えます。日米間でドル安円高政策での2国間通貨合意が得られれば、それを他国へも広げていき、多国間通貨合意へと発展させる狙いもトランプ政権にはあるのではないかと思われます。
トランプ大統領は以前に、中国とともに日本が通貨安政策を取っていると批判したことがあります。現時点ではそうした批判を控えていますが、今後、日本に円安是正を求める可能性があります。その兆候は、米財務省が6月5日に発表した、半期に一度の外国為替政策報告書からも読み取ることができると考えられます。
そこでは、公的年金基金の海外金融資産投資の拡大を通じて、日本政府が事実上の円安誘導を行っている、との批判を暗にしています。他方で、日本銀行による金融引き締め策が行き過ぎた円安の是正をもたらしている、と評価しています。今後は、金融引き締めやドル売り円買いの為替介入を通じて円安の是正、あるいはドル安政策に協力するよう、トランプ政権が日本側に要求する可能性があると考えられます。
ただしその結果、為替市場でドル安円高が急速に進めば、現在の関税策と同様に、日本経済には強い逆風となってしまいます。第1の矢である関税政策が行き詰り、トランプ政権が自らそれを縮小するとしても、第2の矢としてのドル安政策がそれに続く可能性があります。トランプ政権によるこうした政策が日本経済の安定を損ねることへの不安は、容易には解消されないでしょう。

プロフィール

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    木内 登英

    金融ITイノベーション事業本部

    エグゼクティブ・エコノミスト

    

    1987年に野村総合研究所に入社後、経済研究部・日本経済調査室(東京)に配属され、それ以降、エコノミストとして職歴を重ねた。1990年に野村総合研究所ドイツ(フランクフルト)、1996年には野村総合研究所アメリカ(ニューヨーク)で欧米の経済分析を担当。2004年に野村證券に転籍し、2007年に経済調査部長兼チーフエコノミストとして、グローバルリサーチ体制下で日本経済予測を担当。2012年に内閣の任命により、日本銀行の最高意思決定機関である政策委員会の審議委員に就任し、金融政策及びその他の業務を5年間担った。2017年7月より現職。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。