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英国クロスレールの裏側にあるもの

2022/07/13

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英国ロンドン都心の地下を東西に走る新高速鉄道、クロスレールが開業

英国の空の玄関口、ヒースロー空港。同空港とロンドン都心を通り、グレーター・ロンドン(32のロンドン特別区とシティ・オブ・ロンドンで構成される行政区画)の東端・西端を結ぶ新高速鉄道の整備が進んでいる(図1参照)。その名はクロスレール。2022年5月24日にその一部区間が開業を迎えた。ロンドン都心から西寄りにあるパディントンと、市内南東部のアビーウッドを結ぶ区間だ。

図1 クロスレール路線図

出所)https://www.crossrail.co.uk/route/maps/regional-mapに筆者加筆

このクロスレール建設は巨大プロジェクトだ。まずは、その巨大さを数字でお伝えしよう。総延長は118.5km、駅の数は合計で41。うちロンドン都心の42kmは地下を走り、10の地下駅がある。総工費が約3.5兆円に及んだことから、欧州で最大級のプロジェクトと呼ばれた。少々乱暴だが、クロスレール建設での延長1kmあたり建設費は約300億円だ。現在、日本で建設中の中央リニア新幹線のそれが約250億円(=約7兆円÷285.6km)であることから、延長あたり建設費単価は、中央リニア新幹線よりクロスレールのほうが2割高いことになる。

クロスレール建設は、Building Information Modeling が採用された巨大で複雑なプロジェクト

この巨大プロジェクトの複雑さを別の側面でみてみよう。ロンドン都心の地下には多様な構造物が存在する。地下鉄、上下水道管・ガス管に加え、かつて使われていた郵便地下鉄もある。既存構造物との干渉を避けて新路線を敷設する必要があるほか、地下に新設されるクロスレール駅と既存地下鉄駅との接続も必要だ。クロスレール建設が極めて複雑なプロジェクトであることがおわかりいただけるだろう。工事区間は全長で約120kmに広がり、機械設備・電気設備・空調設備など専門設計会社25社が参画。設計図の点数が100万に及んだという。プロジェクトに関わった設計者の数も多い。
設計図と設計者のあまりの多さから、設計段階での調整に膨大な時間を要することが懸念された。2次元の紙の設計図をやりとりしていては膨大な工数がかかること、ヒューマンエラーが多発することは容易に想像がつく。そこで3次元の設計データを使うBuilding Information Modeling(BIM)が採用されることになった。BIMとは、デジタルモデリングを使用して建設資産のライフサイクル全体にわたって設計情報を管理する仕組みである。ライフサイクルとは設計から施工、運営・維持管理、廃棄までを含む。3次元モデルを含む仮想建設環境において、設計者や所有者、建築家、請負業者間とのコラボレーションを可能にし、効率的な情報共有ができる。
ここで、建設プロジェクトがどのように進められるかを簡単に説明しておく。建設プロジェクトの段階は、一般的には設計(細かくは、さらに企画設計、基本設計、実施設計に分かれる)、施工、運営・維持管理の3つに分かれる(図2参照)。最初の2つ、設計段階と施工段階で多数の関係者が関わる。設計段階では意匠図、構造図、電気設備図、空調設備図、衛生設備図等の設計図がそれぞれの専門設計者によって作成され、全体で整合が取れている必要がある。同様に施工段階でもゼネコン(総合建設工事業)や設備サブコン(専門工事会社)等によって作成される躯体図、配筋図、型枠図、製作図等が全体として整合していなければならない。先に、クロスレール建設に必要な設計図が100万点に及んだことに言及した。それら設計図同士で整合性を担保することの大変さは言わずもがなである。ここでBIMが活躍するわけだ。

図2 建設プロジェクトの段階ごとに作成される設計図

BIMが活躍するのは初期の設計・施工段階だけではない。建築物・構造物の耐用年数は数十年に及ぶ。実は、そのライフサイクルで発生する費用の約7割は、施工後の運営・維持段階で発生すると言われる(図3参照)。したがって、初期の設計・施工費用を抑制するのではなく、運営・維持管理費用を含めたライフサイクル費用を抑制できるように、初期段階で設計しておくことが重要だ。具体的には、運営・維持管理費用をシミュレーションし、複数の選択肢のうちどの設計が適切かを初期段階で判断していく。それに必要なのがフロントローディングである。フロントローディングとは、前倒しが可能な工程を初期段階に済ませることを指す。これを容易にするのがBIMだ。

図3 建設プロジェクトのライフサイクル費用の概念図

建設プロジェクトでのフロントローディングとは、たとえば、最初の企画設計の工程で、通常であれば基本設計・実施設計工程で発生する設計作業の一部を前倒しで行うことだ。運営・維持管理段階の費用抑制の工夫を、基本設計・実施設計段階で反映することも含まれる。これらを実現するには、設計データの統合・一元化のほか、業務プロセス変革が必要だ。しかも、その変革は一企業内に留まらない。変革は設計事務所、ゼネコン、サブコン、運営・維持管理会社などサプライチェーン上の広がる複数企業に関係する。デジタル技術を活用して、複数企業にまたがる業務プロセス変革を実現するのがBIMなのだ。
クロスレール建設は、BIMが採用された、最初の巨大プロジェクトである。業務プロセス変革は一筋縄では進まない。一体、どうやって変えたのか。クロスレールを建設するCrossrail Limited社とBIMソフトウェアベンダーであるBentley Systems社が共同でBIMの教育研修機関を設立した。そこでクロスレールプロジェクトに携わる設計者にBIMの教育が施されたのである。設計者をリスキリングしたわけだ。

英国が狙ったのは、社会基盤構築プロジェクトのデジタル変革

BIM重視の動きはクロスレールプロジェクトだけの話ではない。この背後に、実は、建設産業における英国の戦略がある。
英国における建設業は、GDPの7%を占める主要産業の1つだ。英国政府は2011年に「政府建設戦略」を、続く2013年に「Construction 2025」を発表し、英国建設業の成長戦略を展開した。後者は、製造業デジタル化を目指すドイツの産業政策・インダストリ4.0の建設業版だ。狙いは、建設産業の生産性向上と海外進出による売上拡大の2つである。建設産業の生産性向上のために、英国政府は2016年に公共事業にBIMの導入を義務化した。英国が狙ったのは建築物・構造物の設計・施工にデジタル技術を活用することに留まらない。英国は、社会基盤構築プロジェクトのデジタル変革を通じ、ライフサイクル費用削減を狙ったのである。
BIMを取り込んだ情報管理プロセスは、2008年に標準化機関である英国規格協会(British Standards Institution, BSI)によって、英国規格(British Standards;BS)1192として制定された。その一部が2019年には国際規格19650になった。つまり、英国ローカル標準からグローバル標準ができたことになる。英国はここまで考えていたのだ。

図4 BIMに関する英国規格と国際規格

日本でのBIM普及の今と将来

日本でのBIMの普及状況はどうなっているか。2020年4月に国土交通省は、目標を2年前倒して2023年までに小規模を除くすべての公共事業にBIM/CIM(Construction Information Modeling)を原則適用することを決定した。これはBIM普及を加速する動きだ。
加えて、2022年6月7日に内閣官房から「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画(案)」が発表され、その中でBIMが取り上げられた。具体的には「建築・都市のDX」というセクションに、「建築物の形状、材質、施工方法に関する3次元データ(BIM:Building Information Modeling)、都市空間における建築物や道路の配置に関する3次元モデル(PLATEAU)、土地や建物に関する固有の識別番号(不動産ID)の活用を促進する」とある。BIMがいわば社会基盤DXを促進する手段として認知されていると読める。
さらに、建設プロジェクトに携わる民間企業が、BIMを採用したプロジェクトの入札への備えを始めた。さきほど言及したBSIは、英国がBIM標準の規格として定めたBS1192等の世界シェア向上や英国企業の国際競争力強化を支援している。その日本現地法人であるBSIグループジャパンより、ISOに準拠したBIM認証を取得する日本企業が2021年から出始めた。いずれも住宅総合メーカー、ゼネコン、それらのパートナー企業など建築主・発注者から依頼を受ける立場のプレイヤーだ。
今後、日本では高度成長時期に構築された社会基盤施設が更新時期を迎える。日本でBIMが設計・施工段階で使われるのに留まらず、運営・維持管理費用の抑制につながる設計業務のフロントローディングを含めて、長いライフサイクルにわたって活用される時期が早く来ることを期待したい。

英国クロスレールの裏側にあるもの

2017年10月、筆者はシンガポールで開催されたBentley Systems社のイベント、Year In Infrastructureを訪れた。そこで印象に残るセッションがあった。そのセッションにはインド、ドバイ、マレーシア、英国の4人のスピーカーが登壇。英国以外のスピーカーはそれぞれの国の都市鉄道建設プロジェクトの責任者だった。各プロジェクトは英国が定めたBIM標準に倣い、各国は一様に英国を師と仰いでいたことが強く印象に残った。この時、日本がいずれ英国を倣うかどうか、筆者には予想もつかなかった。
かつて大英帝国は七つの海を支配した。それに貢献したのが海運業だ。現在、海運業を運営するための法律は実は英国法に準拠しているといわれる。BIMでは英国が世界をリードしている。社会基盤建設プロジェクトにおけるデジタル技術を活用した業務プロセス変革で、英国は再び覇権を握ろうとしているのだろうか。英国クロスレール開業は「DXで何を狙うか?」を考えさせられるニュースだった。

参考資料

執筆者情報

  • 水谷 禎志

    産業ITイノベーション事業本部 産業デジタル企画部

    上級コンサルタント

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