1.日本企業のデジタル投資が加速しない理由 ~不都合な真実~
はじめに断っておきたい。下記は筆者の経験からの一般論としての仮説であり、個別企業のケースではない。ただしユーザー企業、IT企業とも一部を除けば「大規模で本格的なデジタル投資」については悩みを抱えていることが多く、このため経済産業省が提唱したいわゆる「2025年の崖」の指摘は核心を突いていたと認識している。SAPの保守期限が延長されたため、2025年を迎えた現在でも大きな問題は顕在化していないものの、実際は問題が先送りされているだけといっても過言ではないのではないだろうか。
1)ユーザー企業のIT部長の嘆き
日本企業のIT部長にとって、本格的なIT投資、デジタル投資は鬼門のようでもある。いささか単純化し過ぎかもしれないが、その嘆きを紹介しよう。
①本格的なデジタル投資は、意思決定から稼働までにかなりの期間を要する。計画したタイミングで稼働する保証もなく、予定通り稼働しても社内のユーザーが新たな業務を受け入れてくれないリスクも大きい。
②稼働した時に自分が今と同じポストにいるとは限らない。つまり成功したとしても成果を自分のものとしてアピールすることができる可能性は必ずしも高くない。
③デジタル投資の価値、効果について説明を求められても、どう説明したらよいのかわからない。原価低減策として起案しようにも、人件費削減はIT部長の管掌範囲ではない。
④特に、大規模な機能組織を横断する仕組み、例えばSCM全体でのIT投資の経済効果の推計も、どう算出したらよいかよくわからない。前後比較ができるほど、現状の業務と経済性についてのモデルが確立していない。もちろんデータもとれていない。経済効果について了解をとろうにも、機能組織横断での業務プロセスについての責任部署は存在しない。管理本部からは「原価低減」と「売上拡大」、「流動資産(各種の在庫他)の低減」へ分解して財務へのインパクトを、いわゆるデュポンシステム※で個別に推計できるようにして欲しいと指導される。在庫削減は外部の営業倉庫費用の削減にとどまるので、原価削減へのインパクトは大きくはない。流動資産としての在庫削減もそれだけでは大きな効果にはならない。こうした財務的な評価だけで十分な規模のIT投資の意思決定を正当化することは難しい。
⑤海外事業の適切なIT装備については常に議題に挙がっているが、日本でアウトソースしているITパートナーには海外へ展開する能力はない。そもそも、業務内容、業務標準(SOP:Standard operations procedure)が日本と海外とで異なっているため、日本のシステムをそのまま海外に展開すればよいわけではない。一方、経営層からは「なぜこれだけの大規模な投資をしたIT資産が海外で使えないのだ。何とか使えるように検討して欲しい」という要請を何度も受けている。そうあるべきだとは思うが、あまりにも現実から遠い。正直、どうしていいかわからない。
⑥既存ITパートナーへのベンダーロックイン状態からの脱却は、何代か前のIT部長の時から問題意識としてはあった。実は、そのIT部長の時に、全面的に全業務をERPで刷新し、グローバルで統合しようという大胆なプロジェクトを始めた経緯がある。数年を要したが、結局、最低限必要な「多国籍企業の現法の会計を統合する本社の財務会計部分だけの導入」となり、その他の基幹システム(販売、物流、生産、調達)は現地のシステムそのまま利用することにし、事実上、海外現法と本社会計とのインターフェイス開発を行うだけになった。試行錯誤を含め100億円以上の莫大な費用がかかった。これが経営層の逆鱗に触れ、このIT部長は退社してしまった。その後は、任期中には抜本的な改革は行わないことを決意表明するIT部長が続いている。長期的には問題となるが、これがわが社の文化だから仕方がない。
⑦全面刷新にはリスクが伴うという貴重な教訓を得た。このため、既存ITパートナーができる範囲で段階的にクラウド化などの対応してもらっている。将来ITの技術革新が解決してくれるのを待つしかない。
⑧経営からは「ITはまず安定稼働が重要だ。数年前のようなトラブルは絶対起こしてはならない」と厳重注意されている。逆に、全面刷新を行うほど業務を変革したいという部門はほとんどなく、リーダーシップを採る部門もリーダーもいない。過去の幾多の失敗から考えると、現場からの抵抗が予想される業務改革をIT部門から起案する動機に乏しい。
⑨もちろん現場主導での生成AIの導入を推進している。これまで手がつけられなかったホワイトカラー業務はかなり変わる気がする。これでDXは終わったことにしてくれるのであれば好都合でもある。ユーザー部門が自ら安価な生成AIで業務を変えてくれたら、IT部門はリスクを採らなくてよいからだ。もっとも、それで人件費が削減できるかというと微妙である。ただ、ユーザー部門が利用しているAIを、開発した人間が異動した後にIT部門で面倒を見ろと言われるのは困る。昔から、職人芸的な複雑に作りこまれたエクセルの運用保守では同じ問題が起きていた。同じ問題が生じるリスクは負いたくない。
2)ITパートナーの立場
ITパートナーも、基幹システムの全面的なIT刷新プロジェクトには必ずしも前向きではない。もっとも、短期的なリスクマネジメントに長けたIT企業の中長期の将来の成長戦略には不安が伴う。同様にその嘆きにも耳を傾けてみよう。
①生成AIの活用により、SaaSやAIネイティブのソフトウェア開発手法が導入されつつある。近い将来の全面的なIT刷新プロジェクトでは、過去の業務に囚われず、ユーザー企業が自ら少数のITエキスパートを抱えることで、新技術や新方式を導入しつつ、業務改革を含めてITも刷新されることになるだろう。運用・保守も徐々にユーザー企業が行うようになる。となると、外部に流出する開発費用と運用費用、つまりITパートナーからみた際の売上は格段に低下すると考えられる。このため、こちらから全面刷新を提案することは得策ではない。
②ベンダーロックイン方式での運用保守業務のアウトソーシング型ビジネスモデルに慣れてしまったため、同業他社への提案を行うことができる人材を育成することも容易ではない。企業ごとに業務や業務用語が異なるので、同業種の企業でも他社での経験がそのまま通用するわけではない。さらに今後は、現場の業務を丁寧にヒアリングして個別カスタマイズの仕様を具体化する業務設計力ではなく「顧客の現場が構想できないようなリアルタイムベースでの先進的な機能横断型業務の設計力」が重要となる。これまでのように「アソシエイトクラスの若手を顧客企業に送り込んで業務を理解させ、徐々に対応範囲を拡大していく」という方法は通用しなくなる。先進的な業務設計を担う人材の能力開発・育成のノウハウがないことは大きな問題だ。
③アジアを含め海外市場への展開を果たしていくことは長期的な経営課題だが、既にベトナムやインドのITベンダーの方が国際標準の業務をよく理解していて、海外市場には参入する余地があまり残されていないような気もしている。日本以外のアジア市場は、比較的欧米と同様の市場となってきていて、むしろ日本市場だけが例外となっている。日本のユーザー企業に呼びかけ、仕事のやり方を一緒に変えてもらわなければ縮小する日本市場の中で共倒れになる危険性が高い。
④IT企業としての経営方針は工数ビジネスからの脱却を一貫して掲げてきた。もっとも、自社IPでのSaaSや汎用のキラーアプリケーションへ本格的な投資を継続的に行い、横展開する事業モデルは、これまで成功したことが無く、リスクが大きい。このため、日本市場ではこれまで同様にベンダーロックインで疑似独占状態を形成する戦略を採用せざるを得ない。長期視点でのあるべき戦略はわかってはいても、短期のKPIが変わらなければ経営行動を変革するのは難しい。長期の戦略と短期のKPIとが矛盾しているのは理解している。典型的なイノベーターのジレンマだ。
⑤上記の④の課題は、AIで自動コード作成ができるようになっても短期的には変わらないだろう。もっとも優秀なユーザー企業がITやデジタル人材を獲得し、自前で本格的なIT部門を整備していくことは時間の問題と考えられる。
- ※自己資本利益率=財務レバレッジ×総資産回転率×売上高利益率と3つの要素に分解し、各要素を独立変数として操作できるという考え方
プロフィール
-
藤野 直明のポートレート 藤野 直明
産業ITイノベーション事業本部 人材企画室
兼 コンサルティング事業本部 兼 システムコンサルティング事業本部 兼 産業グローバル事業本部1986年に野村総合研究所入社。政府や自治体への政策研究、企業の業務改革などに携わる。日本オペレーションズリサーチ学会フェロー、オペレーションズ・マネジメント&戦略学会理事、ロボット革命協議会インテリジェンスチーム・リーダー、早稲田大学大学院客員教授他、大学、大学院での社会人向け講義も行っている。著書に「サプライチェーン経営入門」(日本経済新聞社:中国語翻訳も出版)、「サプライチェ-ン・マネジメント 理論と戦略」(ダイヤモンドハーバードビジネス編集部)
※組織名、職名は現在と異なる場合があります。