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はじめに

今回(5月)のFSRは、通商摩擦の深刻化(4月初)の金融経済への影響に関して、ECB執行部として初の包括的な分析を示したほか、域内諸国による財政支出の拡大の副作用も検討している。

通商摩擦による経済への影響

ECB理事会による前回の経済見通し(金融政策関連)は3月時点だったため、通商摩擦の深刻化の影響やリスクを十分取り込めなかった面がある。その意味で、今回(5月)のFSRの最1章は、 ECB執行部として、関税引上げの影響に関する初めての包括的な分析となっている。

ここで強調されているのは、既に顕在化していた主要国間の経済活動のモメンタムの違いが際立つ一可能性である。つまり、ドイツやイタリアのように製造業に依存する国は、外需の減速や規制対応などのため既にunderperformしていたが、米国や中国への輸出減速が更なる下押しとなる恐れがあることになる。

経済部門別には企業への影響に着目し、既往の低位なICRに収益低下が加わることで、債務返済の負担が増加する恐れを指摘している。これに対し、ECBによる既往の利下げが収益を下支えするとの期待もありうるが、金利更改期間の時間的ラグや後で見る銀行の与信スタンスの慎重化といった点を踏まえると、プラス効果には不透明性も残る。

一方で、FSRは経済活動の下支えとして、個人消費に期待している。確かに、賃金上昇率の減速よりもインフレ率の減速が早い結果、実質購買力が回復しているほか、貯蓄率は依然として高く、消費の余力は存在する。しかし、この数年の消費低迷の主因がマインドの慎重化であったことを踏まえると、通商摩擦の不透明性が低下しない限りマインドの好転は望みがたく、その意味で関税引上げの影響は持続性を持つ恐れがある。

財政支出の拡大の意味合い

前回の本コラムで検討したように、ECBの4月理事会の議事要旨では、ドイツを始めとする域内国による財政支出の大規模な拡大が、通商摩擦の深刻化による影響を相殺するとの期待が示され、全体としてポジティブな評価が多かった。

これに対しFSR(第1章)は、こうした効果を認めつつ、域内国の財政状況を一層悪化させるリスクも同時に議論している。この点は、FSRがリスクを、理事会が中心見通しを各々議論するという位置づけの違いを反映したことによるのかもしれない。

FSRによる議論のポイントは、第一に、財政支出の拡大の影響を織り込む以前の段階で、既に域内国の多くが2025年に大幅な財政赤字を見込んでいた点である。このうちイタリア、フランス、ベルギーを含む5か国が欧州員会によるEDPの対象となっていたほか、ドイツですら財政赤字のGDP比が2%を大きく超える見込みであった。

第二の点は、財政債務のGDP比と防衛費のGDP比との関係である。FSRは、2024年については全体としては逆相関であったことを示している(ギリシャは例外)。しかし、イタリア、フランス、スペインといった財政債務のGDP比の大きな国が、防衛費の一層の拡大を図った場合、逆相関の構図は大きく変化しうる。

第三の点は、利払い費が増加し続ける可能性である。財政支出の増大を国債発行で賄う場合には当然であるが、それを除いても、コロナ禍対策で増発した国債の借り換え金利がコロナ禍当時より高い点からも利払い費が増加する可能性を示唆している。

もちろん、こうした要素が実際に金利上昇圧力に繋がるかどうかは、金融市場がどう評価するかにも大きく依存する。実際、いわゆる「米国資産離れ」の影響かどうかはともかく、米欧の投資銀行は投資家による欧州資産のウエイト引上げを示唆するなど、少なくとも足元は良い環境にある。

今後についても、例えば4月理事会の議論が期待するように、防衛費を含む財政支出の増加が域内国のイノベーションや生産性を刺激し、民間投資のcrowding-inの効果を生むようであれば、投資家による財政リスクへの懸念は抑制されうる。

一方で、防衛支出の増加が単に米国からの輸入増加につながったり、財政支出が投資でなく短期的な支出に向けられた場合(域内国の政治情勢を考えるとこのリスクは小さくない)、単に財政支出の乗数が低下するだけでなく、財政リスクが顕在化する恐れが増すことになる。

通商摩擦による金融システムへの影響

今回のFSRは、通商摩擦による金融システムへの影響について、巻末の補論Bで検討を加えている。

ただし、通商摩擦の内容やタイミング等に関する不透明性が極めて高いためか、カルデラ氏ら(2020)が提唱したTrade Policy Uncertainty Index(新聞での関連用語の掲載数がベース)を用いたVARモデルによる分析が中心であり、第1章の実体経済の議論とは直接リンクしていない。しかも、金融安定への影響はシステミックリスク指数のような抽象的な指標で表現している。

その意味では、この補論は、ストレスの主な波及経路やそれらの相対的な大きさを示すことに主眼があると理解すべきであろう。

この点に関しては、通商政策の不透明性の上昇が消費財、IT、工業製品、素材といったセクターの株価を相対的に大きく下押しする一方、不動産やユティリティの株価をむしろ押し上げるとの推計を示している。この点は実際の動きと整合的である。

銀行については、株価の不安定化による短期的な影響に加えて、マイナスの影響を受けるセクターに対する与信コストの上昇、その結果としての与信スタンスの慎重化というメカニズムを示している。しかも、前節でみたように、外需への依存度の大きい国では、こうしたメカニズムが強まる恐れを示している。

一方で、ユーロ圏の銀行による米国への直接的な与信は大きくないため、米国経済の後退による影響は限定的とし、ストレスの国際的な波及には楽観的な見方を示唆している。

より長い目で見れば、FSRの第3章が示すように、銀行部門の健全性や頑健性には全体として大きな問題がないことを示している。もっとも、特に収益性に関しては、ECBが直接に監督する大手金融機関に限っても無視しえない幅での違いが存在することも指摘し、システミックではないとしても、個別のリスクにはなお注意が必要であることを示唆している。

プロフィール

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    井上 哲也

    金融イノベーション研究部

    内外金融市場の調査やこれに関わる政策の企画、邦銀国際部門のモニタリングなどを中心とする20年超に亘る中央銀行での執務経験と、国内外の当局や金融機関、研究機関、金融メディアに構築した人脈を活かして、中央銀行の政策対応(”central banking”)に関する議論に貢献。そのための場として「金融市場パネル」を運営し、議論の成果を内外の有識者と幅広く共有するほか、各種のメディアを通じた情報と意見の発信を行っている。2012年には、姉妹パネルとして「バンキングパネル」と「日中金融円卓会合」も立ち上げ、日本の経験を踏まえた商業銀行機能のあり方や中国への教訓といった領域へとカバレッジを広げている。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。