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5月分CPIは2か月連続で予想以上の上昇

米国の金融市場では、インフレ懸念が燻った状況が続いている。6月10日に米労働省が発表した5月分CPI(消費者物価指数)は、前月比+0.6%と高い上昇率となった。前月4月分CPIの同+0.8%からは若干鈍化したものの、市場予想の同+0.5%を上回った。食料・エネルギーを除くコアCPIも、前月比+0.7%と前月4月分の同+0.9%からは若干鈍化したものの、事前予想を上回っている。

4月に前月比+10.0%と急上昇した中古自動車・トラックの価格は、5月も同+7.3%と高い増加率を続け、指数全体の上昇分の約3分の1の寄与となった。それ以外では、新車、航空運賃、衣料品などの価格上昇が目立っている。

足もとでの高い物価上昇は、米国経済の現状に照らした場合にやや意外である。ワクチン接種の拡大などを背景に、米国経済は急速に持ち直しており、実質GDPはコロナショック前の水準を取り戻しつつある。しかし、それ以前の成長トレンドに復するまでにはなお時間を要し、その結果、需給ギャップは依然コロナショック前の水準を2%程度下回っているとみられる。こうした状況のもとで、コロナショック前の水準を大幅に上回る物価上昇が生じるのはやや奇妙である。

コロナショックによる経済活動の攪乱の一端

予想外の物価上昇率の上振れは、米国だけでなく中国などでも見られているが、それらは持続的ではなく、コロナショックによる経済活動の攪乱の一端と考えられる。

需要が急回復する中で、供給が一時的に追い付かないことが、特定の財・サービスの価格上昇の背景にあると考えられる。米国の労働市場では、一時的に人手不足感が高まっている(コラム「 米労働市場のミスマッチとインフレリスク 」、2021年6月7日)。これが財・サービスの供給を大きく制約している。

例えば、働くことによって感染してしまうリスクへの警戒が依然強いこと、子どもの預け先の確保が引き続き困難なこと、などが労働の供給を阻む要因となっている。さらに注目されるのは、コロナ対策で失業保険給付に上乗せ措置が実施されていることが、働く意欲を削いでいる面があることだ。無理して働かなくても十分な給付が得られるのである。

ただし、失業者の勤労意欲を低下させている失業保険の特別上乗せ措置も、9月には終了する。いくつかの州では、同措置を前倒しで終了する。また秋には学校の対面授業が再開され、感染リスクへの警戒が緩和されることで、再び働き始める人が増えるだろう。その結果、年内には新規雇用増加数が急速に高まる可能性がある。人手不足は次第に解消に向かうだろう。

各国で経済状況に差が大きいことも米国の物価上昇の一因か

他方、コロナ禍のもとでの各国経済の回復ペースに、大きなばらつきがあることも、回復が先行する米国で物価上昇をもたらす一因となっているのではないか。通常の景気後退後の回復時では、米国経済が回復すれば、他国もその恩恵を受け、大きな遅れがなく回復に向かいやすい。

ところが、今回はコロナ問題という経済外的要因が各国経済に大きな打撃を与えている。そのため、ワクチン接種が遅れる国では国内消費の低迷が続き、米国経済回復の恩恵が十分に及ばない。日本がまさにその代表例である。その場合、当該国の生産は縮小傾向が続くため、米国で需要が高まる製品についても米国向け輸出を十分には増やすことができない。その結果、米国での特定の財の需給ひっ迫状態と物価上昇圧力が緩和されない状況を生み出すのである。

FRBが警戒するのは市場のインフレ懸念が高まるリスク

このように、米国での予想外の物価上昇は、コロナショックによってもたらされた特殊な現象という性格が強く、長くは続かないだろう。米連邦準備制度理事会(FRB)も、「物価上昇率の上振れは一時的現象」という認識を、この5月分CPIの発表後も変えないだろう。

しかし、FRBが警戒しているのは、インフレリスクそのものではなく、市場のインフレ懸念が高まるリスクだろう。これは、長期金利の上昇を通じて金融市場全体の安定を損ねる可能性があるからだ。

そのため、FRBは米国経済の状況と金融市場のインフレ懸念の双方を睨みつつ、金融政策の正常化を今後慎重に進めていくことを検討するだろう。FRBは、今夏には資産買い入れの縮小、いわゆるテーパリングの可能性を示唆し、年末にもテーパリングを開始する可能性がある。

事前予想を上回った5月分CPIを受けて、意外なことに米国の10年物国債利回りは1.5%を割り込み、3か月ぶりの水準まで低下した。これは、物価の上振れがFRBの金融緩和の正常化を後押しし、その結果、インフレリスクは抑えられる、との市場の期待を反映しているのだろう。しかし、そうした市場の楽観論がこの先も維持される保証はない。FRBの金融緩和の正常化が遅れ、インフレへの対応が後手に回る、との見方が広がれば、長期金利は大きく上昇するだろう。

FRBが、金融市場の安定維持のため、市場のインフレ懸念に十分に配慮した政策運営を行う結果、物価上昇率の上振れを容認する、という昨年夏に示した新たなインフレ目標政策を、早くも修正することを余儀なくされる可能性もあるのではないか。

 

プロフィール

  • 木内 登英のポートレート

    木内 登英

    金融ITイノベーション事業本部

    エグゼクティブ・エコノミスト

    

    1987年に野村総合研究所に入社後、経済研究部・日本経済調査室(東京)に配属され、それ以降、エコノミストとして職歴を重ねた。1990年に野村総合研究所ドイツ(フランクフルト)、1996年には野村総合研究所アメリカ(ニューヨーク)で欧米の経済分析を担当。2004年に野村證券に転籍し、2007年に経済調査部長兼チーフエコノミストとして、グローバルリサーチ体制下で日本経済予測を担当。2012年に内閣の任命により、日本銀行の最高意思決定機関である政策委員会の審議委員に就任し、金融政策及びその他の業務を5年間担った。2017年7月より現職。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。