9月の実質賃金はわずかに下落
厚生労働省は11月7日に、9月分毎月勤労統計を発表した。実質賃金は前年同月比-0.1%とわずかなマイナスとなった。実質賃金は6月に27か月ぶりに前年同月比でプラスに転じた後、7月もプラスを維持したが、8月、9月は再びマイナスとなっている。
ただし、政府の電気・ガス補助金制度復活の影響で、9月の消費者物価(持ち家の帰属家賃を除く総合)は前年同月比+2.9%と8月の同+3.5%から低下した。他方で、基調的な賃金上昇部分である所定内賃金の上昇率は9月に前年同月比+2.6%と8月の同+2.4%から高まった。その結果、両者の差はかなり縮小してきている。
政府が復活させた電気・ガス補助金制度は3か月の時限措置であり、12月分の消費者物価上昇率は再び高まる。しかし新政権は、同様の措置を再度導入する可能性が高いとみられる。その結果、消費者物価は年明け後に再び低下するだろう。他方で、所定内賃金の上昇率は3%程度まで一段と高まることが予想される。この点から、実質賃金上昇率の前年同月比でのプラス化は、概ね定着しつつある状況と言えるだろう。
ただし、過去2年以上にわたって実質賃金の水準は大幅に低下したことから、実質賃金が前年比で上昇に転じるだけで、個人消費が本格的に持ち直すことにはならないのではないか。個人消費の回復には、実質賃金の上昇傾向が定着するとの認識が消費者の間に広まる必要があるが、それにはなお時間がかかるだろう。さらに、物価高をもたらす円安の修正が着実に進むことも、個人消費の回復の条件となる。
最低賃金は社会政策の一環
ところで、賃金の底上げを狙って、与野党ともに最低賃金の引き上げを主張している(コラム「衆院選挙で各党が掲げる最低賃金引き上げ目標の問題点」、2024年10月22日)。
石破首相は自民党総裁選時に、「2020年代に全国平均1,500円」に引き上げるという目標を掲げた。現在の政府目標である2030年代半ばから前倒しとなる。ただし、この目標については、今回の自民党の選挙公約には書かれていない。公約では賃金について、「物価に負けない賃上げと最低賃金の引上げ加速」とのみ記されている。
ちなみに、2024年度の最低賃金の全国平均は1055円である。これを2029年度に1500円まで引き上げるためには、この先5年間の平均引き上げ率を7.3%程度にする必要が生じる。かなり急速なペースでの引き上げとなる。野党の間でも、1500円までの最低賃金引き上げを公約に掲げるところが多い。
安倍政権の時から、政府は最低賃金の引き上げを通じて賃金全体を底上げすることを目指してきた。しかし、政府そして与野党が最低賃金の目標を掲げるのは、必ずしも適切でないように思われる。
最低賃金は、最低賃金審議会において、賃金の実態調査結果など各種統計資料を十分に参考にしながら審議を行い決定される。最低賃金審議会は、公益代表、労働者代表、使用者代表の各同数の委員で構成されるが、そのうち公益代表を通じて、政府はその決定に、事実上大きな影響力を発揮できる。
ただし、厚生労働省によれば、最低賃金は、(1)労働者の生計費、(2)労働者の賃金、(3)通常の事業の賃金支払能力を総合的に勘案して定めるものとされており、「労働者の生計費」を考慮するに当たっては、労働者が健康的で文化的な最低限度の生活を営むことができるよう、生活保護に係る施策との整合性に配慮することとされている。
最低賃金は、賃金の底上げを図る経済政策として位置付けられるものでなく、最低賃金で働く人に適切な生活を保障することや、最低賃金で働く人とそれ以外の働き手との間の所得格差を縮小させるという社会政策の一環であるはずだ。
最低賃金法第1条においても、 「この法律は、賃金の低廉な労働者について、賃金の最低額を保障することにより、労働条件の改善を図り、もつて、労働者の生活の安定、労働力の質的向上及び事業の公正な競争の確保に資するとともに、国民経済の健全な発展に寄与することを目的とする」と謳われている。
急速な最低賃金引き上げの弊害:年収の壁問題をより深刻に
労働者の生活水準は、名目の賃金の水準で決まるのではなく、物価水準との比較、つまり実質賃金で決まる。この点から、将来の物価動向が予見できない中で、最低賃金の名目水準に政府目標を設定するのは適切でないだろう。
仮に、この先物価上昇率が高まらない中で、急速に最低賃金を引き上げていけば、最低賃金近傍で働く人の実質賃金は急速に高まるが、一方で、そうした人を多く雇用する企業では、人件費が急速に高まり、企業収益が圧迫され、経営破綻に追い込まれる、また雇用の削減を余儀なくされる可能性がでてくる。それは、最低賃金水準で働く人にはむしろ逆風となってしまう。その結果、経済が不安定になる恐れがある。
また、現在議論されている103万円などの年収の壁問題が解決されないなかで、低所得層の賃金水準に大きな影響を与える最低賃金を大幅に引き上げると、それは労働時間を調整する動きを一段と加速させる可能性がある。その場合、最低賃金は引き上げられても労働時間がより短くなり、低所得者層の年収は増えない可能性がある。さらに、労働時間の調整で人手不足がより深刻になってしまう可能性もあるだろう。
いずれにせよ、最低賃金は物価動向や平均的な賃金動向を踏まえて、後から決定されるものであり、それらから独立した目標とすべきものではないだろう。
目指すべきは構造的賃上げ
最低賃金の引き上げを目指すのではなく、実質賃金が上昇する経済環境を作り出すことを第1に目指すべきだ。それが、岸田前政権が掲げた「構造的賃上げ」の実現である。そのためには、労働市場改革などを通じた労働生産性向上が欠かせない。
自民党の選挙公約では、リスキリング、ジョブ型雇用の促進、労働移動の円滑化からなる労働市場改革が掲げられている。これは、岸田政権の「三位一体の労働市場改革」を継承したものであり、この点は適切だろう。
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