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2024年12月のコラム「米国の食品トレーサビリティ規制が日本企業にもたらす挑戦と機会」では、米国における食品トレーサビリティ規制の概要と、日本企業への影響を紹介した。しかし、規制施行を目前にして想定外の規制延期が発表され、米国小売市場では新たな競争環境が生まれつつある。本コラムでは、この規制延期の背景と、米国ひいては日本の企業が直面する新たな競争軸について考察する。

制度施行が30か月延期――揺らぐ食品トレーサビリティ規制

米国食品医薬品局(FDA:Food and Drug Administration)は、「高リスク食品」を取り扱う事業者に対し、トレーサビリティ対応を義務付ける食品安全強化法(FSMA:Food Safety Modernization Act)第204条(以下、FSMA204)を制定した。この「高リスク食品」とは野菜・果物・魚類・甲殻類など主に生鮮品であって、過去に食中毒などのリスクが発生した食品を指す。当初、この義務は2026年1月20日に始まる予定だった。

しかし、開始を10か月後に控えた2025年3月20日に、FDAは制度の施行時期を30か月延期し、2028年7月20日の開始に変更するという衝撃的な発表を行った。FDAは延期理由として「すべての規制対象セクターが最終規則の要件を確実に実施できるようにするため、業界に追加の準備期間を与える必要がある」と説明している。実際、サプライチェーン全体でトレーサビリティ情報を正確に管理するには、情報システムの改修や運用プロセスの見直しが不可欠であり、それには相応のコストと人的リソースを要するのだ。

規制延期で生まれた「分断」――待つ中小、進む大手

FDAは規制延期を受けて、延期された30か月期間を「実施上の課題に対する解決策を特定するための、セクター横断的な対話の期間」と位置付けている。また、業界の準備を支援する目的で、技術支援ツールやその他のリソースの提供にも取り組む意向を示している。すなわち、FDAは食品関連事業者に時間的猶予を与えると同時に、実務面での支援を行う姿勢を明確にしたといえる。

この規制延期を歓迎したのが、中小規模の小売企業だ。独立系スーパーマーケット小売企業を代表する全米食料品店協会(NGA:National Grocers Association)は、FDAの延期発表を受けて「FDAの延期発表を歓迎する」との声明を即座に公表している。人的・資金的な制約が大きい中小規模事業者にとって、制度対応への猶予は切実な要望であったと推察される。

一方で、大手小売企業のKrogerとWalmartは、規制延期が決まる前から、法規制を上回る水準(=Beyond Compliance)での食品トレーサビリティをサプライヤーに要求していた(図1参照)。具体的には、対象食品を「高リスク食品」から「すべての食品」へと“広げ”、開始時期もFSMA204の規定より“早める”という方針である。

図1 FSMA204と米国大手小売二社の食品トレーサビリティの対象商品と開始時期

では、2025年3月の規制延期発表後、両社はこの方針を見直しただろうか。筆者はその動向に注目してきたが、2025年8月下旬時点で両社が当初の方針を変更したという報道は確認されておらず、「広く、早く」の方針を両社ともに維持していると見られる。このように大手小売企業が法規制を上回る取り組みを推進する背景には、食品の安全性向上や消費者への信頼関係構築に加え、トレーサビリティ高度化による競争優位性の確保といった経営戦略上の意図があると考えられる。

「規制の先」を見据えた競争へ

今夏発表された制度の開始時期延期は一時的な猶予にすぎない。米国小売市場における本質的な競争は、「規制対応」だけで満足する企業と、「信頼の先取り」へ積極的に動く企業とで、着実に差が広がる。FSMA204による食品トレーサビリティ義務が2028年7月に開始するそのとき、真に消費者や取引先から選ばれるのは、単なる法令遵守企業ではなく、Beyond Complianceの姿勢を持つ一歩先を見据えた企業といえるだろう。そしてこの構図は、食品トレーサビリティに限った話ではない。環境負荷軽減など社会課題を解決するための規制が生まれるたびに、同様の「分断」は起こりうる。また、この構図は米国内に限った話でもない。積極的に透明性・信頼性確保の取り組みを進めることこそが企業の競争力強化のカギとなりうる。規制整備よりも市場の期待水準が先行する傾向が強まっている今、企業は「法規制のその先」(=Beyond Compliance)まで視野に入れた対応力が求められるのではないだろうか。

参考資料

What is the Food Safety Modernization Act (FSMA)?
https://www.gs1us.org/supply-chain/standards-and-regulations/food-safety-modernization-act

Food Traceability Requirements (Walmart)
https://one.walmart.com/content/food-safety/en_us/food-safety-requirements/food-traceability.html

The Kroger Co Food Traceability Policy & Requirements (The Kroger Co、2023年12月1日)
https://edi.kroger.com/EDIPortal/documents/Maps/kroger-modernized-systems/Food%20Traceability%20Requirements.pdf

FDA Intends to Extend Compliance Date for Food Traceability Rule
https://www.fda.gov/food/hfp-constituent-updates/fda-intends-extend-compliance-date-food-traceability-rule

FDA Proposes to Extend Compliance Date for Food Traceability Rule and Issues New FAQs and Other Resources
https://www.fda.gov/food/hfp-constituent-updates/fda-proposes-extend-compliance-date-food-traceability-rule-and-issues-new-faqs-and-other-resources

NGA Statement on FDA’s Decision to Delay Food Traceability Rule
https://www.nationalgrocers.org/news/nga-statement-on-fdas-decision-to-delay-food-traceability-rule/

The Power Shift is Clear: Retailers are Driving Traceability Timelines, Not the FDA.
https://repositrak.com/blog/the-power-shift-is-clear-retailers-are-driving-traceability-timelines-not-the-fda/

プロフィール

  • 水谷 禎志のポートレート

    水谷 禎志

    産業ITイノベーション事業本部 人材企画室
    兼 システムコンサルティング事業本部 産業ITコンサルティング一部

    1991年、東京大学工学部卒業後に野村総合研究所に入社し、交通・物流の調査研究に従事。
    2002年、米国カリフォルニア大学バークレー校工学部大学院で輸送工学を修了後、製造業・流通業のサプライチェーン改革支援プロジェクトに従事。
    2019~2022年に一般社団法人ヤマトグループ総合研究所客員研究員を兼務、日本でのフィジカルインターネットの認知度向上活動に従事。
    現在、物流専門誌ロジスティクス・ビジネスのコラム「フィジカルインターネット通信」を連載するなど、物流革新に向けた情報発信に取り組んでいる。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。