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個々の合理的な判断が、全体を狂わせる?

2026年の夏、コメをめぐる問題が再び注目を集めた。一時は5kgで4,000円超に達したコメの価格は、現在では2,000円台まで下がってきた。消費者にとっては歓迎すべきことだろう。しかし、その一方で苦境に立たされている主体が存在する。急激な価格下落や在庫の積み上がりを受け、卸売業者は集荷業者をはじめとする流通段階、さらには生産者やJAなど、多層的な流通・生産構造に関わる多様な主体に大きな調整圧力がかかっているといえる。

そもそもの発端は、2024年夏のコメ不足だ。コメが品薄になり価格が上昇すると、その後、2025年産の主食用米の作付面積が前年より約9%広がった。その結果、主食用米の生産量が約10%増えた。ところが、コメの値段が高くなったことで消費者の行動が変わり、パンや麺に切り替えることでコメの需要が減ったのである。2026年6月末の民間在庫は過去最大の243万トンまで拡大した。

つまり、生産者が「品薄回避のために生産量を増やす」、消費者が「価格が高いから購入量を減らす」という、それぞれにとって合理的な判断をした結果、社会全体ではコメの在庫が積み上がり、産地の生産基盤や流通機能全体に負荷がかかるという、望ましくない結果が生じたのである。多数のプレイヤーが関わるコメのサプライチェーンは複雑である。「単純化し過ぎ」と批判を受けるかもしれないが、コメ不足が起きてから需要側と供給側で起きた変化の概略を示したのが図1である。

図1 コメ不足からコメ余りへ

図1 コメ不足からコメ余りへ

こうした現象は、経済学でいう「合成の誤謬」の一例として考えることができる。個々の主体にとって合理的な行動が、必ずしも全体にとって望ましい結果につながるとは限らない。この問題は、コメ市場に限ったものではない。人口、交通、エネルギー、環境、医療など、社会のさまざまな領域で起こりうる。では、このような複雑な問題に対して、私たちはどのように意思決定すればよいのだろうか。

複雑な相互作用を解き明かす「シミュレーション」の力

単一の主体が明確な目的と制約のもとで最適な選択肢を求める問題は、数理モデルを扱うオペレーションズ・リサーチの専門家(以下、OR専門家)が得意とする領域だ。しかし、現実の社会には、複数の主体がそれぞれ異なる目的や判断基準を持ち、互いの行動に反応しながら意思決定する問題が数多く存在する。このような問題では、個々の主体を別々に分析するだけでは、全体として何が起こるのかを捉えることが難しい。

こうした複雑な相互作用を分析する手法の一つが、マルチエージェント・シミュレーション(MAS)である。MASは、コンピューター上に異なる目的や行動ルールを持つ主体(エージェント)を配置し、それぞれが意思決定を行い、相互作用する状況を表現する。「この主体がこう判断したら、市場全体に何が起こるのか」という問い(What-if)を仮想的に試す手法である。

前述の「令和のコメ騒動」は、消費者から小売、卸売、集荷業者、コメ生産者に至るサプライチェーン上の多様な主体が合理的な判断を下し、互いの行動に反応した結果、2026年夏の「コメ余り」を招いたと捉えることができる。

最大の壁は、「どう解くか」より「何を解くのか」

こうした複雑な問題を前にしたとき、最も重要なのは「どう解くか」ではなく「そもそも何を解くのか」である。

コメ市場を例に挙げると、その構造は複雑だ。生産者から消費者まで多数の主体が登場し、在庫も民間と政府備蓄に分かれる。輸入米や小麦製品との競合に加え、麦・大豆などへの転作を促す政府の政策や、食料安全保障といった要素も絡んでくる。

このような状況で、「誰を意思決定の主体とし、どんな情報や制約条件のもとで、どのような選択を行うのか」を正しく定義しなければ、いくらシミュレーションを繰り返しても意味がない。ここには、対象分野の深い知見を備えた「分野専門家」が不可欠となる。

実は筆者自身、約10年前に製造業企業のサプライチェーンネットワーク設計を支援するプロジェクトでMASを使った経験がある。工場の新設・閉鎖や製造設備の更新・廃棄といった投資意思決定のために、サプライチェーン上の各主体の相互作用をモデル化し、さまざまなシナリオでシミュレーションを行った。この経験から得たのは、「何をモデル化するのか」、すなわち「何を解くのか」を決めることの難しさだった。

この「何を解くのか」を構造化することの重要性について、筆者は2026年3月に気づきを得る機会があった。パリ国立高等鉱業学校のShenle Pan教授とフィジカルインターネット研究でのAI活用について意見交換した際、同教授が強調したのがまさに「問題定義」だった。同教授は、モデリング前の問題定義の段階で大規模言語モデル(LLM)を活用し、専門家の暗黙知を引き出して構造化する研究を進めていた。では、このアプローチに基づき、複雑な意思決定のステップを段階的に見ていこう。

異種専門家が共通言語で対話できるようにAIを使う

前述したマルチエージェント・シミュレーション(MAS)を使って、複雑な問題を対象とした場合の意思決定のステップを、七つの段階に分けて考えてみよう(図2参照)。

図2 AIを活用した異種専門家協働による意思決定のステップ

図2 AIを活用した異種専門家協働による意思決定のステップ

第一ステップ:情報収集

解く問題に関連する情報を幅広く集める。報告書、会議資料、ヒアリング記録など、構造化されていないものがほとんどであり、分野専門家が担う。

第二ステップ:問題定義

集めた情報から「問題を定義」する。具体的には、

  • 各主体が、何を目的とし、何をインプットに、どんな制約のもとで、どんな選択を行うか
  • 主体同士がどのように影響し合うのか
  • 各主体の行動に影響を及ぼす、不確実な要素は何か

を明らかにする。数式ではなく、人間が理解・合意できる表現形式で問題定義書のドラフトを作る。これは、ChatGPTなどのLLMが支援できる領域だ。

ただし、LLMにはAIがもっともらしい嘘を出力する「ハルシネーション」のリスクがある。そのため、分野専門家が「意図が正しく反映されているか」「事実誤認がないか」を確かめ、問題定義書を確定する。内容に不備があれば、第一ステップに戻る(フィードバック①)。その際もLLMが情報収集を助けてくれるだろう。

第三ステップ:モデリング

確定した問題定義書をもとに、OR専門家が「意思決定変数」「制約条件」「パフォーマンス指標」などを数式化する。ここでもLLMが対話を通じて、数式化のたたき台作りなどでモデリングを支援する。その結果からOR専門家が「この制約条件の定義が曖昧」「解が存在しない」「数式化できない」と気づくことがある。その場合、第二ステップに戻り、記述を見直す(フィードバック②)。問題定義書を通じて両専門家が対話するのだ。

第四ステップ:シナリオ生成

分野専門家が中心となり、「もし新たな政策を導入したら」「もし急激な環境変化が起きたら」といった仮想シナリオ(What-if)を複数設定する。LLMを壁打ち相手とすることで、分野専門家ですら思いつかない多様なシナリオを洗い出せる。

第五ステップ:シミュレーション

設定されたシナリオに基づき、OR専門家がMASを実行する。モデル上でシナリオを走らせることで、多様な主体が相互作用した結果、市場や社会がどう変化するかを、実行前に仮想体験する。

第六ステップ:結果分析

シミュレーション結果の分析でもLLMが活躍する。通常、シミュレーション結果は膨大な量の数値で示され、分野専門家にはハードルが高い。そこで分野専門家向けに、計算結果の説明文をLLMで作成する。これで両専門家が対等に対話できる。分析結果から別シナリオを試す場合は「第四ステップ」へ、前提条件を疑う場合は「第二ステップ」へと戻り、仮説検証のサイクル(フィードバック③)を回す。

第七ステップ:実行

これは意思決定者が担う仕事である。

重要なのは、AIが一方的に「答え」を出すのではなく、人間とAI、そして異なる専門性を持つ人間同士が、問題定義書を通じて対話し、問題そのものを反復的に磨き上げていくことだ。

「施策を実施してから気づく副作用」を、事前に仮想体験する

解く問題を適切に定義できれば、その次はモデルを使って選択肢を比較検討する。

  • この政策を実施したら、どのような副作用が起こりうるのか?
  • 想定していなかった主体が、どのような行動を取る可能性があるのか?
  • こんな極端な選択肢を採用した場合、結果はどう変わるのか?

重要なのは、未来を一つ予測することではない。複数の選択肢を事前に試し、その違いを理解することである。

本コラム冒頭で「令和のコメ騒動」を取り上げたが、2027年4月に、日本のコメ市場に影響を及ぼす可能性がある制度変更が控えている。水田政策については、水田を対象とした麦・大豆への転作支援から、作物ごとの生産性向上を支援する仕組みへの転換が進められる見通しだ。この施策はインセンティブ型への移行とみなせる。

このテーマでMASを使って何がわかるだろうか。ここでは仮説として、生産者を「高い収量を実現できる生産者」と「高い収量を実現することが難しい生産者」の二つのタイプに分けて考えてみる(図3参照)。高い収量を実現できる生産者は、成果に応じた交付金を得る可能性が高い。その場合、麦・大豆などの専門化・拡大が進み、主食用米の生産量が減る。一方、高い収量を実現することが難しい生産者は、麦・大豆などの転作を諦める可能性がある。その場合、作付を主食用米へ戻す動きが強まり、主食用米の生産量が増える。これはあくまで仮説であり、実際にどのような行動が生じるかはわからない。どちらの影響が大きいかも、今はわからない。

図3 作物ごとの生産性向上施策によって主食用米生産量に起きる変化(仮説)

図3 作物ごとの生産性向上施策によって主食用米生産量に起きる変化(仮説)

コメ市場の将来予測にLLMとMASを次のように使えるのではないか。コメ生産者が選択した行動により、どんな影響が他のステークホルダーに広がっていきうるのか。LLMが人間の想像力不足を補い、その影響がどんな範囲に及ぶかの候補を教えてくれる。MASを使えば、複数の施策シナリオを仮想的に比較することで、施策実行後に初めて気づくような『副作用』を、事前に発見できるかもしれない。

AIは「意思決定者」ではなく「思考を深めるパートナー」

未来を正確に予測することは難しい。しかし、起こりうる未来を事前に仮想実験しておくことはできる。そして、社会が複雑になればなるほど、重要になるのは、AIに意思決定を任せることではないだろう。

では、複雑な意思決定問題を扱う際のAIの価値とは何か。それは、現場の深い知見を持つ「分野専門家」と、数理分析を担う「OR専門家」という、異なる背景を持つ専門家同士の対話を取り持ち、思考を深めるパートナーとして機能することにあるのではないか。

複雑な社会問題を前にしたとき、重要なのは単にAIを使うことではない。重要なのは、「分野専門家」「OR専門家」「AI」の三者が協働し、解くべき問題を適切に定義することだ。「どう解くか」のツール探しを一度止め、「何を解くべきか」を共に探ることから始めてはいかがだろうか。

参考文献

  1. 日本経済新聞「新米3000円割れが見えてきた 『もう倉庫に入らない』、生産も過剰」(2026/6/25)
    https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB1967I0Z10C26A6000000/
  2. 日本経済新聞「コメ農家に迫る成果主義 転作作物、収量が減れば補助金少なく」(2026/7/7)
    https://www.nikkei.com/article/DGXZQODK1095Y0Q6A610C2000000/
  3. 農林水産省「第73回 食料・農業・農村政策審議会食糧部会 参考資料1 米の需給見通しについて」(2026/7/28)
    https://www.maff.go.jp/j/council/seisaku/syokuryo/20260728/siryo3/sanko1.pdf
  4. Utomo, D. S., Onggo, B. S., Eldridge, S., “Applications of agent-based modelling and simulation in the agri-food supply chains”, European Journal of Operational Research, Vol. 269, No. 3, 2018, pp. 794–805.
  5. Ben Meriem, G., Pan, S., Klibi, W., Selmi, M. H., “LLM-Augmented Strategic Framing for PI-Oriented Supply Chain Networks”, Proceedings of the 12th International Physical Internet Conference, 2026, pp. 528–532.

プロフィール

  • 水谷 禎志のポートレート

    水谷 禎志

    産業ビジネス企画部

    1991年、東京大学工学部卒業後に野村総合研究所に入社し、交通・物流の調査研究に従事。
    2002年、米国カリフォルニア大学バークレー校工学部大学院で輸送工学を修了後、製造業・流通業のサプライチェーン改革支援プロジェクトに従事。
    2019~2022年に一般社団法人ヤマトグループ総合研究所客員研究員を兼務、日本でのフィジカルインターネットの認知度向上活動に従事。
    現在、物流専門誌ロジスティクス・ビジネスのコラム「フィジカルインターネット通信」を連載するなど、物流革新に向けた情報発信に取り組んでいる。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。