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アントフィナンシャル 1匹のアリがつくる新金融エコシステム

2019/09/25

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中国で急速に普及したモバイル決済、個人の信用度を得点化する芝麻信用など、アリババグループの金融機能を担うアントフィナンシャルが展開する新たな金融サービスへの関心は世界的に高い。同書は2003年のアリペイのサービス開始から2017年までの同社の革新的な金融サービスがどのように発展してきたかの克明な記録である。中国の金融産業の構造やデジタル技術の発達、そして当局の監督や規制などの様々な要素が互いに影響しつつ、その中からアントフィナンシャルという巨大な金融サービスプラットフォームが生まれ成長していった過程が明らかになる。

[著]廉 薇、辺 慧、蘇 向輝、曹 鵬程
[翻訳]永井 麻生子
[発行日]2019年1月24日
[出版社]みすず書房
[定価]3,200円+税

アントフィナンシャルという巨大な「アリ」

アントフィナンシャルという名前を聞いたことはあるだろうか。企業名は知らなくてもアリペイは聞いたことがある人も多いだろう。アントフィナンシャルは、中国の電子商取引コングロマリットのアリババグループの金融機能を担う金融プラットフォーム企業群だ。

数年前から中国ではスマートフォンを活用したQRコード決済が急速に普及してきた。その普及を担ってきた主要プレイヤーの一つがアントフィナンシャルである。アントフィナンシャルは決済領域に留まらず、決済口座に余剰資金を運用できる「余額宝(ユーフーバオ)」、零細企業向けの運転資金融資「阿里小貸(アーリンシャオダイ)」、個人の様々な行動履歴をもとに信用スコアをはじき出す「芝麻信用(ジーマシンヨン)」など、中国で革新的な金融サービスを矢継ぎ早に展開し、さらにこれらのサービスの利用者がすでに数億人を越えるという巨大なプラットフォームを築き上げた驚異的な企業である。

本書は、北京大学デジタル金融研究センターが企画・執筆したもので、詳細な文献調査や関係者への綿密なインタビューをもとに、研究者グループが執筆したものである。その意味で、記述や事実確認の点で安心して読める本である。

アリババグループの経営理念の「凄まじさ」

アントフィナンシャルは、前述したとおりアリババグループの金融機能を担う企業だが、アリババグループの創設者であるジャック・マーの肝いりで起業された企業でもある。アリババグループの経営理念は、「顧客第一、従業員第二、株主第三」「唯一変わらないものは変化」といったテクノロジーを最大限活用して、社会の変革と発展を目指すというある種「利他的」な姿勢で貫かれている。この傾向はアントフィナンシャルにも受け継がれており、利用者や社会のニーズになんとかして応えようとする悪戦苦闘ぶり(その中には規制当局との粘り強いやり取りも含まれている)が克明に描かれている。

また、決済分野での強力なライバルであるWeChatPayとの競争では、WeChatPayを展開するテンセントの競争力がその運営するSNS(WeChat)にあると見て、アリババもSNSサービスに乗り出したことがある。しかし、後発のSNSサービスで苦戦し、サービスコンセプトが迷走しだしたとみるや、きっぱりとSNSから撤退し、本来の決済の高度化に方針を自己修正してみせるという経営能力の高さを示してもいる。

アリババグループの経営理念を端的に知るためには、先日、予告通り自ら経営者から身を引いたジャック・マーの退任にあたってのスピーチを見てもらうことが一番手っ取り早いだろう。

「次のアリババが明日始まる」「別の舞台で会おう!」ジャック・マー引退演説全文 | BUSINESS INSIDER JAPAN

この中に出てくる「将来、アリババにはただ金儲けのうまい凡庸な会社になってほしくありません。私たちの目標はライバルに勝つことではなく、社会、世界や人びとに良い会社と認められることです。強い企業になるのは容易ではないですが、良い会社になるのはもっと難しいです。強い企業はビジネスの能力がありますが、良い企業の基準は責任と善良です。」といったフレーズは、創業間もないころのGoogleが掲げた「Don’t be Evil(邪悪になるな)」を彷彿とさせる。

「TechFin」の真の意味と「金融包摂」

さて、アントフィナンシャルはアリペイを始め、様々な金融サービスを展開しているが、現在は新たなフェーズに入っているように見える。それは自社による金融サービスの展開にとどまらず、インターネット金融のオープンなエコシステムを作り上げようとしていることに現れている。実際、アントフィナンシャルはこのところ自社の戦略の中心を「信用情報のプラットフォーム」と「低取引コストを実現するクラウド基盤」においている。前者は個人向けには芝麻信用に代表されるサービスであり、後者は「蚂雲(マーユン)計画」というアリババグループの技術の粋を生かした金融クラウドサービスの展開である。

以前、ジャック・マーはアントフィナンシャルが「FinTech」企業と呼ばれることに違和感を示し、「我々は『TechFin』企業だ」と述べたことがある。私は聞いた当初は単なる言葉遊びに聞こえたが、最近になると腑に落ちるようになってきた。彼らのいう「TechFin」とは、「テクノロジーを活用することで、より金融を身近なものにする」という意味であると感じたからである。実際、アントフィナンシャルの近年のビジネス展開の主戦場は、信用情報履歴を持てない(クレジットカードが持てない、ローンを借りたことがない)個人向けサービスであり、銀行から融資を引き出すことができない零細商店や中小企業向けの融資であったり、さらには農村の農家向けの資金提供サービスといった、既存の金融機関ではコスト的に割の合わない領域への積極的な事業展開である。

つまり、アントフィナンシャルはかなり本気で「フィナンシャル・インクルージョン:金融包摂」を進展しようとしており、そして、この「unbanked」マーケットのポテンシャルを本気で追求しようとしているようである。実際、インドを始めとしたアジア地域での決済事業のパートナー展開や、アフリカ地域での融資ビジネスなど、アントフィナンシャルは金融包摂をグローバル規模で推進しようとしている。

このような金融包摂は、すでに金融インフラの整備が一巡している日本のような国にとっては、短期的にはそれほどのインパクトはないだろう。しかし膨大な処理能力を持つ金融サービスのクラウド基盤は、いずれ限界費用を限りなくゼロに近づけるだろう。そうなったとき、基礎的なサービス(例えば決済や口座振替のような)の提供に新たなクラウドサービスが進出してこない保証はない(利用者にとっては安くなるメリットが享受できる)。言い換えれば、いわゆる「イノベーションのジレンマ」でいうところの「破壊的イノベーション」がすでに登場している状況とも言える。

「中国スゴい論」に踊らされる前に

中国の昨今のテック事情が日本でも多く報道されている。ここでも紹介したアリペイをはじめとしたQRコードを活用したモバイル決済や、AIを大胆に利用した社会システムなどの報道を皆さんも一度ならず目にしたことがあるだろう。それらの報道には「中国はスゴい」という一種の興奮と、その裏にある「それに比べて日本は」という危機感を感じることが多い。また、この手の「中国スゴい論」の裏に潜むもう一つの感情は「民主国家ではない中国だからできることだよね」というある種の「中国特殊論」があるように思われる。「普通の民主主義・資本主義の国では無理だよね」と。

しかし本書を読み進めれば、中国社会が抱える様々な課題を解決しようと奮闘する企業(起業家)と、彼/彼女らを育成しつつも、必要な規制と見れば果断に規制に踏み込む政策当局の姿が見て取れるだろう。また事業の立ち上げに際して泥臭い人海戦術をもいとわないアントフィナンシャルのやり方に、イメージとしての「テック企業」とは異なる凄みを感じることもできるだろう。

本書はアントフィナンシャルを通じて、現代の中国のある重要な側面を克明に描いた貴重なドキュメンタリーとも言える。分量が多く読むにはそれなりの労力が必要だが、その労力に見合ったものが得られるだろう。それでも読み通すのが難しい方は、この本の執筆陣が所属する北京大学デジタル金融研究センター長の黄益平氏の序文「アントフィナンシャルは生きた金融の発展史である」だけでも読んでほしい。10ページ程度の文章だが、同書のエッセンスが凝縮されている。

同書を読めば、軽躁な(かつ日本の卑下や中国特殊論が隠れた)「中国スゴい論」に対する鑑識眼が備わるだろう。また一方で、中国テック企業の真の意味での凄さと、中国の政策当局の凄みも理解できるのではないだろうか。

しかし、本書はそれなりの分量もあり、アントフィナンシャルが記述の中心であるため、現在の中国の変化の全体を掴むには若干スコープが狭いかもしれない。その意味では、西村友作「キャッシュレス国家 『中国新経済』の光と影」(文春新書)のほうが、全体像を俯瞰するには向いているかもしれない。

[著]西村 友作
[発行日]2019年4月19日
[出版社]文藝春秋
[定価]850円+税

また、アリババグループ、そしてアントフィナンシャルを立ち上げた立志伝中の人であるジャック・マーの人となりを知るために、高口康太「現代中国経営者列伝」(星海社新書)もあげておきたい。同書は、鄧小平の改革開放経済の開始から始まった中国の経済発展の中核を担った起業家たちのエピソードがまとめられている。同書の中に次のような一節がある。「(中国の改革開放経済は)明治維新と高度成長が一緒に来たようなものだ」。激動の中国経済を経営者目線で追体験できる面白い本である。

[著]高口 康太
[発行日]2017年4月26日
[出版社]講談社
[定価]900円+税

執筆者情報

  • 柏木 亮二

    金融イノベーション研究部

    上級研究員

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