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「幸福な監視国家・中国」:「自由か、さもなくば幸福か?」

2019/10/25

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急速なITの社会実装が進む中国。個人信用情報プラットフォームである「芝麻信用」を歓迎し、党や地方政府によって行われているネット検閲や、街のいたる所に設置されている監視カメラに対してもそれほどの忌避感を持たない中国人を、私たちはどこか釈然としない気持ちで見ている。それはジョージ・オーウェルが「一九八四年」で描いた「ビッグブラザー」の支配するディストピアではないのか、と。しかし、実際の中国で起きていることを見てみると、そこには「無秩序で混乱した社会」から「行儀がよくて予測可能な社会」への転換を歓迎している市民がいる。そして、現在の中国を知るほどに感じるのが、いわゆる「西側資本主義国」のほうが、この「監視社会」の到来がさらに悪い形、つまり市民の目に見えない形で近づいて来ているのではないかという危惧である。

[著]梶谷 懐、高口 康太
[発行日]2019年8月10日発行
[出版社]NHK出版
[定価]850円+税

中国の「監視社会」の実像

日本のメディアで中国の監視社会の記事を目にすることが増えた。きっかけはアントフィナンシャルによる個人の信用スコアリングサービスの「芝麻信用(セサミ・クレジット)」のサービス開始だろうか。また日本でも様々な個人信用スコアリングサービスが開始されたこと(みずほとソフトバンクによるJ/ScoreやYahoo! スコアなど)も、この動きに対する関心を高める要因になった。しかし、実際の中国におけるスコアリングの実態を正確に伝える報道は少ないように思える。多くの報道はある種の先入観に基づく「監視社会ディストピア」観を前提とした「中国特殊論」をセンセーショナルに伝える論調が多かった(実際、中国のこの手の報道には必ずと言っていいほど、ジョージ・オーウェルの「一九八四年」が引き合いに出されていた)。

この「幸福な監視国家・中国」は、常にフラットな立場から中国の経済を捉えてきた神戸大学の梶谷懐教授と、中国の現場に常に身を置くジャーナリストの高口康太氏による、実際の中国の「監視社会」の実態を描いた本である。本書は、先入観を排除し、実際に中国人が受け入れている「監視」サービスの実情を明らかにしていく。そこから見えてくるものは、「監視に怯えつつ不自由を甘受する人々」ではなく、「テクノロジーの恩恵を活用し、生活の利便性の向上を積極的に取り込もうとする人たち」の姿である。

本書の概要を知りたい方は以下の著者インタビュー記事を参照してほしい。
中国人が監視国家でも「幸福」を感じられるワケ 『幸福な監視国家・中国』梶谷懐氏、高口康太氏インタビュー WEDGE Infinity(ウェッジ)

民間の「スコアリング」と政府・自治体の「社会信用システム」とその効果

中国の「監視」には、大きく分けて2つのシステムが存在する。一つが、民間企業によって行われるいわゆる「スコアリング」であり、もう一つが政府や地方自治体によって行われる「社会信用システム」である。

前者の民間の「スコアリング」の代表的なものが先に上げた「芝麻信用」だ。この芝麻信用は、アリババとアントフィナンシャルの各種サービスの利用実績や、提携する様々なサービスの利用実態によって、利用者の信用度を350点から950点の間の数値で評価するサービスである。この芝麻信用のスコアがある一定の値を越えると、様々なサービスで特典が与えられる(この辺りについては以前、金融ITフォーカス2017年10月号に「信用のプラットフォーム『芝麻信用』」に書いているので参照してほしい)。この芝麻信用は、中国外でのセンセーショナルな報道のされ方に反して、中国国内では「便利なプラットフォーム」として認知されている。

実際、芝麻信用の普及によって起きたことは「それまで銀行のサービスを受けられなかった学生や零細商店への少額融資の実現」や、「参加者の相互評価によるシェアエコノミーの信頼性の向上」といったプラスの効果である。一部で懸念されたいわゆる「スコアによる二極化」、つまり低スコアの人たちがあらゆるサービスから排除されるのではないかという危惧は、現実にはほとんど起きていない。

では、もう一方の政府や地方自治体による「社会信用システム」はどうだろうか。この社会信用システムの全国規模のものは「失信被執行人リスト」が挙げられる。これは、各領域での違反者や脱法企業のブラックリストを統合し、その企業や個人の信用コード(国民IDや企業IDにあたる)を公開し、さらにそれらの法人や個人の権利を一定範囲で制限するものである。権利の制限内容には、例えば「高速鉄道や飛行機のチケットの取得制限」や「子息の私立学校への進学制限」といった「懲戒」が並んでいる。このシステムには救済措置があり、違反した行為を回復すればリストからは削除される(例えば延滞金の支払いなど)。

そして、この失信被執行人リストは実は意外と好評なのである。現在では中国で新たな商取引をする際に、このリストで名前を検索することがある意味ルーティンになっていると言われる。このリストに掲載されていなければ一定の信用ができる(逆に言えば、このリストに掲載されるとかなりまずいことになる)という評価が得られるのである。

また、最近地方自治体で整備されている個人が対象の社会信用システムの代表例として、山東省の栄成市が整備した市民の信用スコアシステムがある(詳細は以下の記事を参照 道徳心を採点される――中国で広がる「信用スコア」の内実 - Yahoo!ニュース )。この記事を見てわかるのは、この信用スコアは、決してブラックボックスではないということである。スコアが減点される行為は特定されており、その減点対象もいわゆる交通違反や迷惑条例違反といった内容が大半であり、決して行政側が恣意的に運用できるような性格のものではない。また、スコアには加点される項目も整備されており、例えばボランティア参加や寄付、献血などといった社会貢献が評価されるようになっている。この栄成市の信用スコアは、良スコアによる特典も用意されており、一定以上のスコアであれば役所への申請書類の手続きが免除されるなどのメリットが享受できる。

そして、栄成市は実際「一台も路上駐車の車を見かけ」ず、ビーチには「ゴミ一つない、美しい海辺が広がっている」行儀のいい都市になっているのである(前出記事より)。「罪を犯さず普通に生活して、ちょっといいことをすればそれが自らのメリットに直接つながる社会」、それが大多数にとっての中国の「監視社会」である。

暗部としての「少数」を弾圧する「監視社会」

しかし、監視社会は社会の少数派にとっては徹底した弾圧を可能にする装置になる。それが本書の第7章で取り上げられる新疆ウイグル自治区における少数民族ウイグル族に対する徹底した弾圧への監視システムの利用実態である。現在、中国の新疆ウイグル自治区では、イスラム教を信仰するウイグル族は「イスラムの過激思想に染まって反社会的行動を起こす可能性がある」とみなされると、「再教育」という名のもとでの強制収容所に長期間収容されるという人権抑圧状態が続いている。そして、この弾圧に街中の監視カメラによる監視が積極的に活用されているのである。

また、現在も続いている香港の民主化要求デモの際に、デモ参加者が監視カメラでの個人の特定を恐れて顔をマスクで隠す、地下鉄での移動履歴を残さないように現金で切符を購入して移動するといった「監視システム逃れ」の行為が報道された。このように、監視社会は社会の少数派にとっては、効率的かつ徹底的な弾圧を可能にする悪魔のシステムとして機能する。

実際、中国国内でも、SNSなどへの投稿内容に政府の政策への批判が含まれていないかの検閲が大規模に行われている。また民間のSNSである微博には、書き込み内容がデマと判断されたら減点される信用スコアが実装されている。そして、このスコアの失点回復方法は、「祖国を熱愛することを栄光とし、祖国に害を与えることを恥とする」といった定型文を投稿したり、他の不適切な投稿を通報したりすれば特典の回復期間が短縮されるというなんともあからさまな仕組みが導入されている。こうなると、「罪を犯さず普通に生活して、ちょっといいことをすればそれが自らのメリットに直接つながる社会」は、政府当局が認める範囲における「普通」の上を綱渡りさせられているという状況にほかならない。

「自由」と「利便性・安全性」のトレードオフは中国だけの問題ではない

このように、中国における「監視社会」は「大多数」にとっては「社会の利便性・安全性」を高める「テクノロジーの賜物」だが、「少数派」にとっては「自由」を制限する「強固な監視システム」そのものである。また大多数に所属しているつもりでも、政府当局にとって「少数派」に分類されれば、その瞬間から自らの「自由」は制限される。

このように、中国の「監視社会」は「自由」と「利便性・安全性」のトレードオフを露骨に顕在化させている社会といえる。では、このトレードオフは中国だけのものだろうか。

[著]大屋 雄裕
[発行日]2014年3月12日発行
[出版社]筑摩書房
[定価]1,500円+税

大屋雄裕「自由か、さもなくば幸福か?」は2014年に出版された本だが、いわゆるAIやIoTの実装が予想される社会における21世紀の社会像を予想した本である。同書の議論は、「幸福な監視国家・中国」でも参照されており(pp.108-111)、「現代人が持つ安心・安全への欲求」と「安心・安全を守るためのテクノロジー」が組み合わさった結果、ある種の「監視社会」の到来は不可避であるという議論が展開される。

同書の予想する社会像を「幸福な監視国家・中国」の著者らによるまとめを援用して整理すると(「幸福な監視国家・中国」pp.109-110より)、テクノロジーの発達によって安心・安全を実装した社会のあり方には以下の3つのシナリオが想定されている。

  1. 「新しい中世の新自由主義」:強大な富とテクノロジーを持った私企業(例えばGAFA)が構築した「スコアリングシステム」によって、法律や政府の力以外のものによって人々の行動が制限される社会。ある種の「弱肉強食」の世界であり、「自己責任」の世界でもある。
  2. 「総督府功利主義のリベラリズム」:「総督府功利主義」とは、一部の支配階級(この場合では植民地を統治する総督府を想定)が、植民地の二級市民(現地人)を効率よく集中管理する社会の構造。二級市民には統治に参加する権利はなく、ただ支配されるだけの社会。
  3. 「ハイパー・パノプティコン:万人の万人による監視社会」:テクノロジーを通じてすべての個人が相互に監視される社会。そこではエリートや政治家・官僚、企業経営者ですら完璧な監視の対象となることで、管理された平等が達成されている社会。誰もが自由の一部を制限されているが、そのため逆に安定している社会。

「自由か、さもなくば幸福か?」の著者である大屋氏は、「どれも耐え難い」シナリオであると認めつつも、それでも(3)ハイパー・パノプティコン社会が最も受け入れられるのではないかと言っている。そして、この考察は中国の監視国家を前提としてスタートしたものではない。自由主義・民主主義を標榜する国家における組織と個人の関係に、テクノロジーが及ぼす影響をシミュレートしたものなのである。当然日本もこのどれかのシナリオの途上にいる。

リクナビ事件を過小評価してはいけない

EUはGDPR(一般データ保護規則)を強行することで、GAFA的なアーキテクチャによる統制、つまり(1)の「新しい中世の新自由主義」の流れをなんとか食い止めようとしており、個人のデータを本人の意思でコントロールする権利を強調することで、マイルドな(3)「ハイパー・パノプティコン」への着地を目指しているようにみえる。自らを「監視する/できる対象」を自ら選択できるという意味で、そこに「自由意志」はかろうじて命脈を保っている。

中国は一党独裁体制下での(2)の「総督府功利主義」の道を進んでいる様に見える(残念ながらそこに「リベラリズム」は存在しないようだが)。では、日本はどうだろうか。

日本もEUのGDPRに触発され、またGAFAによるデータ独占への警戒から昨今プラットフォームに対する規制が検討されている。この動きの背景には明示的に表明されたことはないとはいえ、おそらく(1)の「新しい中世の新自由主義」、つまり「データ強者」による弱肉強食の世界を回避しようとする意図があるだろう。しかし、そのような中で起きたリクナビ事件は、ごくありふれた「就活支援サービス」ですら、一歩間違えれば「利用者に見えない形」で、「利用者の人生に関わる利害」を簡単に歪めることができるという事実を知らしめた。そして、そこには中国のスコアリングに「すら」実装されている「不利な評価を回復させる仕組み」も存在しなかったのである。

日本でも昨今データを活用した様々なビジネスアイデアが出てきている。その事自体を否定的に捉える必要はないが、そのデータを「誰のために活用するのか」という根本的な問いかけを常に自問しておかないと、我々は「自らが作り出した『監視システム』を制御できない社会」を生み出しかねない。そしてそこには「幸福」も「自由」もないかもしれない。

執筆者情報

  • 柏木 亮二

    金融イノベーション研究部

    上級研究員

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