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測りすぎ:業績評価が組織をダメにする?

2020/01/27

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我々は様々な数値化された業績評価を行っており、また評価もされている。「測りすぎ」は、この広く蔓延している「数値化したパフォーマンス評価」が組織や業務の行動を歪めてしまっており、本来期待されたような「改善」をもたらしていないことを様々な実例をあげて論証する。このパフォーマンス評価が組織の機能不全を引き起こしてしまう原因は、本来は「手段」であったはずの「測定」がいつの間にか「目的」にすり替わってしまうことにある。そして今後デジタル化によって「測定可能」な指標はさらに増えていくだろう。KPIを安易に増やす前に一度読んでおくべき本だ。

■ 測りすぎ-なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?

[著]ジェリー・Z・ミュラー
[訳]松本 裕
[発行日]2019年4月27日発行
[出版社]みすず書房
[定価]3,000円+税

なぜみんな「測りたがる」のか?

「パフォーマンスを測定する」そもそもの動機はなんだろうか。著者は測定と改善との間の誤解が原因ではないかと指摘する。19世紀の偉大な科学者だったケルヴィンの格言と言われているもの(ただしこれは誤った逸話らしいが)に「測れないものは、改善できない」というものがある。そして、それをもう一歩進めたのがいわゆる科学的経営管理手法のテイラー主義であり、そのコンセプトを一言で表すのが、1980年代のカリスマ経営者トム・ピータースの「測定されるものは実行される」という言葉である。このコンセプトは多くのフォロワーを生んだ。最大のフォロワー集団が経営コンサルタントである。彼らはクライアント企業のパフォーマンスを測り、同業他社や他のエクセレントカンパニーと比較し、経営の改善を売り込んだ。ここで止まっていればよかったのだが、この「測定」と「改善」の間に誤った因果関係を見出すおっちょこちょいがいつの間にか現れた。つまり「測定できるものはすべて改善できる」という勘違いだ。

この勘違いが世に広まるにつれ、さらに状況を悪化させたのが、社会が政府や公的機関、病院や大学などの専門機関、そして大企業などに対して不信感をつのらせてきたことである。

特に、医療や教育といった公的な領域について社会は厳しい目を向け始めた。なぜなら、20世紀を通じて世の中は様々なイノベーションが生まれ、いわゆる工業製品や消費財は目に見えて安くなり、さらに高品質なものが手に入るようになった。しかし、教育や医療はコストが高止まりし、しかもその質はあまり改善したようには見えない。社会はこれらの領域に不満を感じ始めたのである。

社会は彼らに対して「説明責任(アカウンタビリティ)」と「透明性」を示すよう求めたのである。当然ながら、この要求自体は正当なものであることに疑いはない。ただ本質的に複雑かつ専門的な業務を行っている組織が、その活動内容を「誰にでもわかりやすい」形で外部に説明することは非常に難しいことだ。ここに「測定基準」というものが入り込んできた。「客観的な数値指標で表される目標と、これも数字で表される達成度」だ。

そしてこの流れにさらに拍車をかけたのがITの発展と普及である。データを集める機会が増え、また集めるコストも減ったことで、それまでは想像上の管理手法だった「客観的な数値指標」の収集と、さらにデータによる活動量の把握によって「達成度」の評価もできるようになってしまったのである。

ここで一つ慌てて言っておきたいことがあるが、著者は(評者も)「測定基準は有害だ」といっているわけではない。うまく測定基準を構築することで着実な成果をあげている領域もある(本書ではpp.108-113の医療機関における成功例を扱っている)。しかし、著者が主張しているのは「誤った測定基準が横行しており、実際に弊害が生じている」という点であることは注意しておきたい

そもそもそれは「測れる」ものなのか?

さて、測定基準の弊害は2つの段階に分けられる。一つは「測定する情報の歪曲」問題であり、もう一つが「測定基準の改ざん」問題である。ここでは最初の「測定する情報の歪曲」問題とはどのようなものかを見ていこう。

この「測定する情報の歪曲」には3つの側面がある。

  1. 一番簡単に測定できるものしか測定しない
    ここで問題なのは「測定すべきもの」ではなく、「測定できるもの」しか測定しないことである。本来、組織の活動とは複雑なものであり、簡単に制御できるものではない。その複雑性を評価する場合は、慎重にその業務のコアとなる「なにか」を見極めた上で評価すべきであろう。しかし得てして人は最も簡単に測定できるものに飛びついてしまう。
  2. 成果ではなくインプットを測定する
    プロジェクトについて測定するとき、努力の結果を測定するのではなく、プロジェクトに投入された金額やリソースを測定するほうが簡単な場合が多い。なので組織はどれだけ消費したかばかり測定して何を生み出したかは測定しなかったり、成果物の代わりにプロセスを測定したりする(同書、pp24-25)
  3. 標準化によって情報の質を落とす
    もともと「測定」自体が「問題の単純化」のための活動なので、単純化とそれに伴う情報の標準化それ自体は避けることができない性質のものだが、しかし標準化の過程で失われたもの(本来の概念、歴史的背景、測定そのものの限界など)への想像力が欠如している場合、標準化は情報の質の単純な「劣化」に陥ってしまうだろう。

このように「測定」にはある種の難しさが常に存在しているのである。その意味で、本来「測定」し「達成度」を管理するといったやり方が適するのは、単純作業といった定型化された業務に対してであり、複雑な業務を定量的に「測定」することは非常に難しいものであり、そしておそらく「測定」するべき対象でもないだろう。

この「測定する情報の歪曲」の極端な事例として、ベトナム戦争時のマクマナラ国防長官が「アメリカのベトナム戦争におけるパフォーマンス」として「死者数」という指標を利用していたことを挙げている。この「死者数」が最終的な指標として重視されると、前線の指揮官はそれに対応することになる。しかし本来敵軍の「死者数」を正確に知ることはできない(味方ならまだしも)。すると前線部隊は「インプット」で成果を測ることになった。空軍であれば空爆の出撃回数、砲兵部隊は発射した弾の数といった「成果」ではなく「インプット」もしくは「プロセス」を重視するようになってしまった。もう一方で、歩兵は敵の「死者数」を数えるための行動(当然これは戦略的にも戦術的にも全く無意味の作戦行動だ)で数多くの命を落とした。

「測る」ことが目的になるとどうなるのか?

そして、測定基準のもう一つの弊害「測定基準の改ざん」問題である。この問題を端的に表している法則がある。一つは「キャンベルの法則」と呼ばれ、「定量的な社会指標が社会的意思決定に使われれば使われるほど、汚職の圧力にさらされやすくなり、本来監視するはずの社会プロセスを捻じ曲げ、腐敗させやすくなる」というものである。もう少し直接的なのは「管理のために用いられる測定はすべて、信頼できない」という身も蓋もない「グッドハートの法則」というものもある。ようは「測定基準は改ざんされやすい」のである。

改ざんには大きく4つのパターンがある。

  1. 上澄みすくいによる改ざん
    これは成果の出やすい対象だけにリソースを投入することで効率が向上したように見せかけるやり方である。医者であれば簡単で軽度な患者のみに治療を行い、重症で難しい症例の手術を拒否したりすることで生じる(実際、アメリカでは外科医の手術成功率が公表されており、外科医には手術成功率を高めに保つインセンティブが生じている)。
  2. 基準を下げることで数字を改善する
    これは「ハードルを下げること」で達成度をごまかすやり方である。例えば「品質検査の合格基準」を下げたり、実際にかかる納期よりも長めの納期を設定することで、納期遵守率を高めたりする操作があたる。
  3. データを抜いたり、歪めたりして数字を改善する
    ようは都合の悪いデータは無視したり、もしくは意図的に除外したりする行為である。例えば学校に課せられている国の共通学力テストの受験日に、成績の悪い生徒たちを休ませるといった行為である。
  4. 不正行為
    これはそのままである。実際にデータを書き換えたり、意図的に業務の遂行手順を変更したりする行為である。一例として挙げられているのが、アメリカの警察である。アメリカの警察では「重大犯罪」をより軽微な「軽犯罪」に分類するという対応が取られていたケースを挙げている。

ではなぜこのような「改ざん」が生じてしまうのだろうか。著者はその理由を「測定基準」と「報酬」を結びつけているからだと説明する。本来、定型的ではない業務は簡単には定量化できないはずである。しかしそのような領域にも「測定基準」を押し付け、しかもその「測定基準」の「達成度」で処遇が決まってしまうことがこの問題を生み出すのである。しかし、この「測定基準の達成度」と「評価」の連動という仕組みは、現在では非常に多くの領域で見られるものである。ということは、非常に多くの組織でこの手の「改ざん」が日常的に行われていると考えるべきだろう。そして、この「測りすぎ」という構造が生んでいるのはこのような「改ざん」といった倫理的な不正行為ではなく、そもそもの組織の本来の目的や活動が「測定基準」によって歪められていることなのである。学校であれ、病院であれ、企業であれ、本来であれば果たすべき役割が「測りすぎ」によって歪められているのが最大の問題なのである。

「測りすぎ」から抜け出す一つの道:OKR

■ OKR(オーケーアール)シリコンバレー式で大胆な目標を達成する方法

[著]クリスティーナ・ウォドキー
[訳]二木 夢子
[解説]及川 卓也
[発行日]2018年3月15日発行
[出版社]日経BP
[定価]1,500円+税

さて、「測りすぎ」では「現実を過度に単純化し、かつ簡単に測定できるデータだけを見て、そして一面的な評価を行うこと」による組織の機能や役割の歪みを見てきたが、ではこれは避けられないものなのだろうか?言い換えれば、「定量的な組織の管理・運営」はそもそも可能なのかという疑問にたどりつく。しかし「測りすぎ」でも述べたように、「正しい測定基準」はありうるはずである。その可能性の一つが「OKR:Objective Key Result(目標と成果指標)」のフレームワークである。

OKRのフレームワークの詳細は割愛するが、OKRが「測りすぎ」で陥った悪しき「測定基準」と異なるのは以下の4点である。

  • 明確なゴール(Object)一つに絞っている:複数の目標をあれもこれも追うのではなく、経営上重要なゴールを明確に設定する
  • ゴール(Object)が達成されたと判断できる成果指標(Key Result)を定量的に示す
  • それぞれの成果指標(KR)に自身の「達成自信度」を示す:ここがおそらくOKRの一番の肝である。この達成自信度は例えば1から10で表すことになる。このとき、自信度が「5」くらいのKRを設定することが重要である。「確実にできること(自信度10)」ではなく、常にストレッチ目標を掲げることがOKRの工夫である
  • 設定したOKRをもとに最低週一回以上のPDCAサイクルを回す

このOKRのフレームワークの特徴は、「達成自信度」を取り入れていることからもわかるように、自発的な動機と取り組みを重視し、そしてその自発的な活動の評価基準を自らが定めていることである。このフレームワークが「測りすぎ」でやり玉に上がった「測定基準」と異なっているのは、「その仕事の複雑さや大変さ、そして自分の頑張りを最も知っているのは自分である」という当たり前の事実を、組織の中の管理・運営の仕組みに取り入れている点である。

そしてもう一点重要な相違点がある。「測りすぎ」や今の組織で設定されているKPIなどは、「達成度が100%であるべき」という信念のもとで運用されていることが多い。しかし、常に「100%」が達成されることを前提とすることは本来正しい基準だろうか。人間は必ずミスをする生き物である。そのような社会において常に「ミスがない」状態を基準にすることがそもそも不自然であり、また理不尽なのである。この達成できるかできないかという挑戦と失敗を前提とした目標を管理するというフレームワークは、実に人間的だと思うのだがどうだろう。

「測りすぎ」と折り合いをつける道

■ 意外と会社は合理的 組織にはびこる理不尽のメカニズム

[著]レイ・フィスマン、ティム・サリバン
[訳]土方 奈美
[発行日]2013年12月14日発行
[出版社]日本経済新聞出版社
[定価]1,800円+税

「測りすぎ」で描かれた問題と無縁であると言い切れる人はおそらくここの読者では皆無だろう。かといって、OKRを導入すれば問題解決になるわけでもない。しばらくは現実と折り合いをつけながら状況を改善していくしかない。そのためのヒントとなる本として「意外と会社は合理的 組織にはびこる理不尽のメカニズム」を紹介しておく。タイトルで分かる通り、この本も「組織」には「理不尽なメカニズム」がはびこっていることは認めている。だらだら続く会議、現場のことをわかっていない管理職、目標共有の失敗、歪んだインセンティブや縦割り主義、上層部から降ってくる無意味な指示などなど。この本で取り上げられる「理不尽」には「測りすぎ」が問題視した「意味のないパフォーマンス評価」も多く含まれている。

そして本書では、組織の「理不尽さ」が生じる理由を「プリンシパル―エージェント問題」と「取引コスト」という経済学のフレームワークでモデル化する。タイトルに「意外と合理的」とある通り、同書ではこの理不尽さもその組織の行動原理を反映させたものであり、そこにはなんらかの経済合理性があるはずだと見る。この「理不尽さ」を「経済合理性」の一側面として扱えるようになることで、「測りすぎ」的問題にも現実的な改善策が見えてくるだろう。

事例として取り上げるものも意外なものが紹介されていて面白い。例えばアルカイダのメンバーの管理手法(テロ組織ですら構成員には出張報告の提出が求められるらしい)や、メソジスト教会の牧師の能力給制度などが取り上げられている。聖なる?世界にも俗世と同様のインセンティブ構造があることがわかって面白い。

また、この本と「測りすぎ」を合わせて読むことをおすすめしたい理由の一つに、取り上げられている組織が「測りすぎ」とかなり重なることである。両者で取り上げられている組織には例えば「警察組織」「学校」「病院」「米軍」などがある。それぞれの組織が抱えている課題は両書とも同じように取り上げているが、その評価についてはかなり異なる意見になっている(当然だが、総じて「会社は意外と合理的」のほうが組織に対して同情的である)。現実的に組織と評価に向き合う必要がある人には、こちらのほうが優先順位が高いかもしれない。

執筆者情報

  • 柏木 亮二

    金融イノベーション研究部

    上級研究員

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