4月2日のトランプ関税に戦々恐々とする日本政府と企業
4月2日にトランプ政権は、例外を認めない25%の自動車関税措置、および米国製品に高い関税を課す国からの輸入品に対する関税率を引き上げる「相互関税」を発表することが見込まれる。
日米間には自動車を巡る長い貿易摩擦の歴史がある。さらに1980年代には、日本の自動車メーカーが関税の回避を狙って、自動車輸出の自主規制という異例の対策を講じた。
今回も、関税回避を狙って日本の自動車メーカーの中では、自主規制という選択肢も検討されているのではないか。そこで以下では、日米自動車貿易摩擦と対米自動車輸出の自主規制について、その歴史を振り返り、今後の参考としたい。
日本政府並びに産業界では、経済全体への影響が大きい自動車への関税の行方をとりわけ注視し、戦々恐々としている(コラム「トランプ関税の米国経済への悪影響に注目が集まる:25%の関税の応酬で米国のGDPは1.8%、日本のGDPは0.9%低下」、2025年3月19日)。
日米間には自動車を巡る長い貿易摩擦の歴史がある。さらに1980年代には、日本の自動車メーカーが関税の回避を狙って、自動車輸出の自主規制という異例の対策を講じた。
今回も、関税回避を狙って日本の自動車メーカーの中では、自主規制という選択肢も検討されているのではないか。そこで以下では、日米自動車貿易摩擦と対米自動車輸出の自主規制について、その歴史を振り返り、今後の参考としたい。
日米自動車貿易摩擦の歴史を振り返る
第2次世界大戦後、米国の自動車産業は世界のトップを走っていた。しかし、1960年代に入ると、米国消費者の間では、小型車への需要が高まりを見せ始めた。さらに、第1次、第2次オイルショックでガソリン価格が急騰すると、燃費の良い小型車への需要はさらに高まっていき、ホンダの小型車「シビック」などが人気を集めた。そうした小型車需要に米国の3大自動車メーカー、ビッグスリーは適切に対応できず、その結果、外国製の小型車の輸入が大幅に増加したのである。
米国内での輸入車のシェアが1978年の約18%から1980年には26%と4分の1の水準を超えると、米自動車メーカーの関係者の間で対日感情は急速に悪化し、米デトロイトなど自動車産業の集積地では、日本車がハンマーでたたき潰される「ジャパン・バッシング」のパフォーマンスが繰り広げられた。
1980年にはフォード社と全米自動車労組(UAW)は共同して、「通商法201条」に基づき、急増する日本車の輸入制限を求めて米国際貿易委員会(ITC)への提訴に踏み切る。同年に、日本の自動車生産は米国を抜いて世界一になった。また同年は大統領選挙の年であったが、共和党大統領候補のレーガン氏は、自動車産業の救済を選挙公約に掲げ、大統領就任後には、自動車問題を検討するための閣僚レベルのタスクフォースを設置した。
ここで日本車の輸入規制が検討され、レーガン大統領は1981年5月に公表した自動車産業救済策のなかで、日本側に輸出の自主規制を求めた。これを受けて日本政府は自主規制をまとめたのである。
米国内での輸入車のシェアが1978年の約18%から1980年には26%と4分の1の水準を超えると、米自動車メーカーの関係者の間で対日感情は急速に悪化し、米デトロイトなど自動車産業の集積地では、日本車がハンマーでたたき潰される「ジャパン・バッシング」のパフォーマンスが繰り広げられた。
1980年にはフォード社と全米自動車労組(UAW)は共同して、「通商法201条」に基づき、急増する日本車の輸入制限を求めて米国際貿易委員会(ITC)への提訴に踏み切る。同年に、日本の自動車生産は米国を抜いて世界一になった。また同年は大統領選挙の年であったが、共和党大統領候補のレーガン氏は、自動車産業の救済を選挙公約に掲げ、大統領就任後には、自動車問題を検討するための閣僚レベルのタスクフォースを設置した。
ここで日本車の輸入規制が検討され、レーガン大統領は1981年5月に公表した自動車産業救済策のなかで、日本側に輸出の自主規制を求めた。これを受けて日本政府は自主規制をまとめたのである。
1981年から1994年の対米自動車輸出自主規制
1981年に、日本は自動車の対米輸出の自主輸出規制を表明した。1980年の182万台という実績から14万台削減し、168万台という輸出枠を設定したのである。1981~1983年度には168万台、1984年度は185万台、1985~1991年度は 230万台、1992~1993年度は165万台の自主規制を行った。ちなみに、2024年の対米自動車輸出台数は137.6万台だった。
日本の自動車メーカーは現地生産化を進め、まず1982年にホンダが米オハイオ州で「アコード」の現地生産を始めたのを手始めに、1984年にはトヨタ自動車とGMが米カリフォルニア州で合弁工場を設立した。各社が相次ぎ現地生産に乗り出した結果、1980年代後半に年間300万台を超えた日本から米国への輸出台数は、1988年以降は減少傾向を辿った。その結果、日本からの対米自動車輸出が大きく減少したことを受けて、輸出の自主規制はその意味をなくしたのである。
1992年に日本は米国製自動車部品の対日輸出増大及び販売増大を目的としたアクションプランを作成した。それは、日系米国工場における米国製部品購入額を1994年度に約150億ドル,米国製部品輸入額は1994年度に40億ドルとする自主計画を自動車各社の自主的な取組として発表したのである。これを受けて13年間続いた対米自動車輸出の自主規制は、1994年3月に撤廃されることになった。
レーガン政権下で問題化した貿易赤字は、軍事費拡大による国内需要超過やドル高政策によるところが大きかったが、実際にはその原因が外国の不公正貿易慣行などにあるとの考えが強く支持され、最終的には日本の対米自動車輸出の自主規制が、米国の貿易赤字削減に相当分貢献させられた面があった。
日本の自動車メーカーは現地生産化を進め、まず1982年にホンダが米オハイオ州で「アコード」の現地生産を始めたのを手始めに、1984年にはトヨタ自動車とGMが米カリフォルニア州で合弁工場を設立した。各社が相次ぎ現地生産に乗り出した結果、1980年代後半に年間300万台を超えた日本から米国への輸出台数は、1988年以降は減少傾向を辿った。その結果、日本からの対米自動車輸出が大きく減少したことを受けて、輸出の自主規制はその意味をなくしたのである。
1992年に日本は米国製自動車部品の対日輸出増大及び販売増大を目的としたアクションプランを作成した。それは、日系米国工場における米国製部品購入額を1994年度に約150億ドル,米国製部品輸入額は1994年度に40億ドルとする自主計画を自動車各社の自主的な取組として発表したのである。これを受けて13年間続いた対米自動車輸出の自主規制は、1994年3月に撤廃されることになった。
レーガン政権下で問題化した貿易赤字は、軍事費拡大による国内需要超過やドル高政策によるところが大きかったが、実際にはその原因が外国の不公正貿易慣行などにあるとの考えが強く支持され、最終的には日本の対米自動車輸出の自主規制が、米国の貿易赤字削減に相当分貢献させられた面があった。
25%関税回避のために輸出自主規制が得策との計算も
日本の対米自動車輸出に25%の関税がかけられた場合、自動車輸出台数は15%~20%程度減少すると見込まれる(コラム「日本の対米貿易黒字解消手段を検証:輸出品全体に60%の関税で黒字解消:GDPは1.4%低下」、2025年3月17日)。
既に見たように、1981年に対米自動車輸出の自主規制を行った際には、3年間の輸出台数を年間182万台から168万台へと約8%減らすものだった。25%の関税による輸出台数の減少率見込みと比べて、2分の1から3分の1程度にとどまることに注目したい。
この点から、対米自動車輸出に25%の関税がかけられるのを避けるためには、1981年と同程度の対米自動車輸出の自主規制を行う方がずっと得だ、という計算を日本政府あるいは日本の自動車メーカーが現在行っている可能性もあるのではないか。
さらに、1981年の対米自動車輸出の自主規制は、当初懸念されたほどの打撃を日本の自動車メーカーに与えなかった。米国市場では、日本車の人気が高かったことから、輸出自主規制によって品薄になった日本車に消費者が飛びつき、価格が上昇したのである。当時、1万2,000ドルのトヨタ・クレシーダ(マークII)が1万7,000ドルで売られる例もあったとされる。その後の円安傾向も加わって、日本の自動車メーカーの対米輸出ビジネスは比較的良好を維持した。
輸出自主規制が台数ベースであるならば、日本の自動車メーカーは、米国に輸出する自動車の高付加価値化を進めることや、販売価格を引き上げることで、輸出自主規制による収益への打撃を緩和することができるだろう。
既に見たように、1981年に対米自動車輸出の自主規制を行った際には、3年間の輸出台数を年間182万台から168万台へと約8%減らすものだった。25%の関税による輸出台数の減少率見込みと比べて、2分の1から3分の1程度にとどまることに注目したい。
この点から、対米自動車輸出に25%の関税がかけられるのを避けるためには、1981年と同程度の対米自動車輸出の自主規制を行う方がずっと得だ、という計算を日本政府あるいは日本の自動車メーカーが現在行っている可能性もあるのではないか。
さらに、1981年の対米自動車輸出の自主規制は、当初懸念されたほどの打撃を日本の自動車メーカーに与えなかった。米国市場では、日本車の人気が高かったことから、輸出自主規制によって品薄になった日本車に消費者が飛びつき、価格が上昇したのである。当時、1万2,000ドルのトヨタ・クレシーダ(マークII)が1万7,000ドルで売られる例もあったとされる。その後の円安傾向も加わって、日本の自動車メーカーの対米輸出ビジネスは比較的良好を維持した。
輸出自主規制が台数ベースであるならば、日本の自動車メーカーは、米国に輸出する自動車の高付加価値化を進めることや、販売価格を引き上げることで、輸出自主規制による収益への打撃を緩和することができるだろう。
トランプ関税回避の見通しは依然として厳しい
このような点から、日本政府や日本の自動車メーカーが、トランプ政権による25%の自動車関税を回避するために、米国での現地生産の更なる拡大計画の表明と対米自動車輸出の自主輸出規制措置の組み合わせをトランプ政権に提案する可能性があるのではないか。
ただし、トランプ政権もこうした過去の経緯を学んでいるのだとすれば、安易に日本による対米自動車輸出の自主規制措置を受け入れることはないだろう。
また、欧州連合(EU)などが、不当な保護主義政策を一方的に進めるトランプ政権に大きく譲歩したかのような印象を与える対米自動車輸出の自主規制措置を講じるとは考えにくい。そうなれば、自動車関税については、すべての相手国に対して同じ条件で公平に行う、という現時点でのトランプ政権の原則に照らせば、やはり、安易に日本の対米自動車輸出の自主規制措置は受け入れられないのではないか。
日本の対米自動車輸出、あるいはそれ以外の輸出品について、トランプ政権による関税措置の適用から逃れる展望は未だ開けてこない。
(参考資料)
木内登英『トランプ貿易戦争: 日本を揺るがす米中衝突』(日本経済新聞出版社、2018年10月)
「日米自動車摩擦 1970年代から繰り返す歴史」、2018年9月27日、日本経済新聞電子版
ただし、トランプ政権もこうした過去の経緯を学んでいるのだとすれば、安易に日本による対米自動車輸出の自主規制措置を受け入れることはないだろう。
また、欧州連合(EU)などが、不当な保護主義政策を一方的に進めるトランプ政権に大きく譲歩したかのような印象を与える対米自動車輸出の自主規制措置を講じるとは考えにくい。そうなれば、自動車関税については、すべての相手国に対して同じ条件で公平に行う、という現時点でのトランプ政権の原則に照らせば、やはり、安易に日本の対米自動車輸出の自主規制措置は受け入れられないのではないか。
日本の対米自動車輸出、あるいはそれ以外の輸出品について、トランプ政権による関税措置の適用から逃れる展望は未だ開けてこない。
(参考資料)
木内登英『トランプ貿易戦争: 日本を揺るがす米中衝突』(日本経済新聞出版社、2018年10月)
「日米自動車摩擦 1970年代から繰り返す歴史」、2018年9月27日、日本経済新聞電子版
プロフィール
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木内 登英のポートレート 木内 登英
金融ITイノベーション事業本部
エグゼクティブ・エコノミスト
1987年に野村総合研究所に入社後、経済研究部・日本経済調査室(東京)に配属され、それ以降、エコノミストとして職歴を重ねた。1990年に野村総合研究所ドイツ(フランクフルト)、1996年には野村総合研究所アメリカ(ニューヨーク)で欧米の経済分析を担当。2004年に野村證券に転籍し、2007年に経済調査部長兼チーフエコノミストとして、グローバルリサーチ体制下で日本経済予測を担当。2012年に内閣の任命により、日本銀行の最高意思決定機関である政策委員会の審議委員に就任し、金融政策及びその他の業務を5年間担った。2017年7月より現職。
※組織名、職名は現在と異なる場合があります。