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日米関税協議は継続か

日米関税協議がなかなか合意に至らないことにいら立ちを強めるトランプ大統領は、7月9日の事実上の交渉期限に達した時点で、30%、35%といった当初公表した対日相互関税の24%よりも高い関税を懲罰的に課す考えを示した(コラム「トランプ大統領が対日相互関税の引き上げを示唆:35%で国内GDPへの影響は-1.10%と現在の2倍以上に」、2025年7月2日)。
 
しかし実際に、トランプ政権がそのような高い関税を日本に対して一方的に通告する可能性は高いとは言えないだろう。協議は継続されるというのが、現時点でのメインシナリオではないか。
 
ベッセント米財務長官は3日に、「日本は7月20日に参院選を控えており、合意するうえで多くの国内的な制約があるのだと思う。日本との交渉の行方は当面様子を見る」とし、日本側の状況に理解を示す発言をしている。またフォルケンダー米財務副長官は2日に、日米関税交渉について「協議は着実に進展している」と語っている。ベッセント財務長官は、誠実に協議を行っている国とは、交渉期限を延長する考えを示唆しており、赤澤大臣が足しげく訪米して協議に臨む日本は、その対象となる可能性はあるだろう。

米国側が自動車輸出の自主規制を求めた

ところで、米ウォールストリートジャーナル紙は7月2日、トランプ大統領の対日姿勢の強化につながる日米関税協議での両国の対立を報じている。米国のハワード・ラトニック商務長官とジェミソン・グリア通商代表部(USTR)代表は、日本との数週間にわたる交渉の末に貿易協定で合意に至らなかったことを受け、圧力を強めることを決めたとされる。
 
5月下旬に赤澤大臣が訪米した際に、ラトニック商務長官とグリアUSTR代表は、両国が早期に合意に至らなければ、トランプ政権は追加の懲罰的措置へと移行する可能性があると警告した。そのうえで両氏は、日本が米国に輸出できる自動車の台数に上限を設けるよう日本側に要求する可能性があると述べた。これはかつてあった自動車の「輸出自主規制」の復活である。しかし日本側はこの要求を突っぱね、引き続き自動車関税の撤廃を求めたという。
 
以下では、日本の対米自動車輸出の自主規制の歴史を改めて検証してみたい(コラム「歴史に学ぶ日米自動車貿易摩擦:対米自動車輸出の自主規制は再び検討されるか?」、2025年3月24日)。

日米自動車貿易摩擦の歴史を振り返る

第2次世界大戦後、米国の自動車産業は世界のトップを走っていた。しかし、1960年代に入ると、米国消費者の間では、小型車への需要が高まりを見せ始めた。さらに、第1次、第2次オイルショックでガソリン価格が急騰すると、燃費の良い小型車への需要はさらに高まっていき、ホンダの小型車「シビック」などが人気を集めた。そうした小型車需要に米国の3大自動車メーカー、ビッグスリーは適切に対応できず、その結果、外国製の小型車の輸入が大幅に増加したのである。
 
米国内での輸入車のシェアが1978年の約18%から1980年には26%と4分の1の水準を超えると、米自動車メーカーの関係者の間で対日感情が急速に悪化し、米デトロイトなど自動車産業の集積地では、日本車がハンマーでたたき潰される「ジャパン・バッシング」のパフォーマンスが繰り広げられた。
 
1980年にはフォード社と全米自動車労組(UAW)は共同して、「通商法201条」に基づき、急増する日本車の輸入制限を求めて米国際貿易委員会(ITC)への提訴に踏み切る。同年に、日本の自動車生産は米国を抜いて世界一になった。また同年は大統領選挙の年であったが、共和党大統領候補のレーガン氏は、自動車産業の救済を選挙公約に掲げ、大統領就任後には、自動車問題を検討するための閣僚レベルのタスクフォースを設置した。

ここで日本車の輸入規制が検討され、レーガン大統領は1981年5月に公表した自動車産業救済策のなかで、日本側に輸出の自主規制を求めた。これを受けて日本政府は自主規制をまとめたのである。

1981年から1994年の対米自動車輸出自主規制

1981年に、日本は自動車の対米輸出の自主規制を表明した。1980年の182万台という実績から14万台削減し、168万台という輸出枠を設定したのである。1981~1983年度には168万台、1984年度は185万台、1985~1991年度は 230万台、1992~1993年度は165万台の自主規制を行った。ちなみに、2024年の対米自動車輸出台数は137.6万台だった。

日本の自動車メーカーは現地生産化を進め、まず1982年にホンダが米オハイオ州で「アコード」の現地生産を始めたのを手始めに、1984年にはトヨタ自動車とGMが米カリフォルニア州で合弁工場を設立した。各社が相次ぎ現地生産に乗り出した結果、1980年代後半に年間300万台を超えた日本から米国への輸出台数は、1988年以降は減少傾向を辿った。その結果、日本からの対米自動車輸出が大きく減少したことを受けて、輸出の自主規制はその意味をなくしたのである。

1992年に日本は米国製自動車部品の対日輸出増大及び販売増大を目的としたアクションプランを作成した。それは、日系米国工場における米国製部品購入額を1994年度に約150億ドル,米国製部品輸入額は1994年度に40億ドルとする自主計画を自動車各社の自主的な取組として発表したのである。これを受けて13年間続いた対米自動車輸出の自主規制は、1994年3月に撤廃されることになった。

レーガン政権下で問題化した貿易赤字は、軍事費拡大による国内需要超過やドル高政策によるところが大きかったが、実際にはその原因が外国の不公正貿易慣行などにあるとの考えが強く支持され、最終的には日本の対米自動車輸出の自主規制が、米国の貿易赤字削減に相当分貢献させられた面があった。

トランプ大統領が望む日本の対米貿易黒字解消は現実的でない

現在、日本の対米自動車輸出には、25%の関税がかけられている。これは対米自動車輸出を最大で20%程度減少させる可能性がある。
 
既に見たように、1981年に行われた対米自動車輸出の自主規制は、3年間の輸出台数を年間182万台から168万台へと約8%減らすものだった。これは、25%の関税による自動車輸出台数の減少率と比べて、2分の1から3分の1程度にとどまる。この点から、トランプ政権が自動車関税を打ち出す前であれば、対米自動車輸出の自主規制は、日本にとって選択肢の一つであったのではないか。
 
しかし、実際には25%の自動車関税が適用され、日本はそれを不当として撤廃を求める姿勢を固めた。その結果、対米自動車輸出の自主規制は日本側の選択肢から外れたと言えるだろう。
 
トランプ大統領は、日本の対米黒字をゼロにすることを目指している。しかし、これはほぼ不可能と言えるだろう。2024年の日本の対米自動車輸出は6.0兆円、部品を含めて7.3兆円である。仮に対米自動車輸出をゼロにしても、8.6兆円の対米貿易黒字はなくならない。また、米国からの穀物・農産物の輸入を2倍に増やしても1.1兆円、自動車の輸入を3倍に増やしても0.5兆円しか貿易黒字は減らない。この3つの施策を同時に実施して初めて、貿易黒字は解消することになるが、それは現実的ではない。
 
7月9日の期限を越えて日米関税協議が継続されても、早期に妥結する道は引き続き見えてこない。
 
(参考資料)
“Trump Said Trade Deals Would Come Easy. Japan Is Proving Him Wrong.(難航する日米関税交渉、トランプ氏の誤算)”, Wall Street Journal, July 2, 2025
「財務長官「日本は参院選が合意の制約に」 関税交渉の難航示唆」、2025年7月4日、日本経済新聞電子版
「日米交渉「着実に進展」米財務副長官 進展ない国には来週関税率伝達」、2025年7月3日、朝日新聞
木内登英『トランプ貿易戦争: 日本を揺るがす米中衝突』(日本経済新聞出版社、2018年10月)
「日米自動車摩擦 1970年代から繰り返す歴史」、2018年9月27日、日本経済新聞電子版

プロフィール

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    木内 登英

    金融ITイノベーション事業本部

    エグゼクティブ・エコノミスト

    

    1987年に野村総合研究所に入社後、経済研究部・日本経済調査室(東京)に配属され、それ以降、エコノミストとして職歴を重ねた。1990年に野村総合研究所ドイツ(フランクフルト)、1996年には野村総合研究所アメリカ(ニューヨーク)で欧米の経済分析を担当。2004年に野村證券に転籍し、2007年に経済調査部長兼チーフエコノミストとして、グローバルリサーチ体制下で日本経済予測を担当。2012年に内閣の任命により、日本銀行の最高意思決定機関である政策委員会の審議委員に就任し、金融政策及びその他の業務を5年間担った。2017年7月より現職。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。