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メドテックコラムは、コンサルタントが企業に共通する課題をとらえ、考察したことを読者のみなさまと共有することを目的に執筆し、連載でお届けする。今回は、コロナ禍でその必要性や内容が見直されるようになった、『バイオセキュリティ政策』の動きについて述べる。医療に関わるバイオ技術は、Covid-19のワクチンの開発、製造、供給に際して、国家安全保障上のリスクとなることが白日の下にさらされる格好となった。また、医療以外の分野においても、世界的な人口増加や経済発展に伴う食糧問題やエネルギー問題においても重要性が増している。バイオセキュリティ政策は、主要国がそれぞれに策定しているが、国の産業、科学技術、経済、軍事などの政策にもとづいて、各国がその範囲を規定している。本コラムは、医療に関わるバイオセキュリティ政策に主眼をおく。

米国バイオセキュリティ政策の経緯

はじめに、これまでの経緯を整理する。2022年9月、"Executive Order 14081 — Advancing Biotechnology and Biomanufacturing Innovation for a Sustainable, Safe, and Secure American Bioeconomy"という、いわゆるバイオテクノロジー政策が策定された。また、この大統領令にもとづく政府横断の取り組みとして“National Biotechnology and Biomanufacturing Initiative (NBBI)”が発足した。NBBIのもとで、国防総省(DoD)のバイオ産業製造インフラに10億ドル、サイバーバイオセキュリティに2億ドルなど、総額20億ドル超の新規R&Dや設備投資を進めた。その後、2024年6月に国家バイオエコノミー委員会(National Bioeconomy Board)を設置、350億ドル超の政府・民間投資の進展と、省庁横断の実装を推進してきた。

2025年1月にトランプ政権が発足すると、2025年3月には”Executive Order 14236”により、前述のExecutive Order 14081は撤回された。これにより、バイオセキュリティ政策が見直されることになったが、米国での開発と製造機能を強化する施策は継続して進められることとなった。ミネソタ州ミネアポリスやデラウェア州ニューアークなどで国内製造のエコシステムの構築が行われている。また併せて、米通商拡大法232条調査(Section 232調査)も動き始めた。米国大統領は、米国の国家安全保障に影響し得る輸入品に対する関税や数量制限などを調整する権限を有しており、2025年4月にそのための調査が開始された。調査は半導体から始まり、医薬品・医薬品原料、医療機器・消耗材、重要鉱物、木材・製材などが順次調査の対象となった。232条調査の結果は、医薬品・医薬品原料は未公開、医療機器・消耗材は継続中となっている(2026年1月20日現在)。バイオセキュリティ政策と米通商拡大法232条にみられる経済・通商政策は不可分であるため、引き続きウォッチする必要がある。

現時点で動いている施策(2026年1月20日時点)

米国では3つの動きが同時に進行している。それは、(1)安全な研究開発のルールの策定、(2)研究開発に使用する製品とプロセスの管理、(3)リスクの高い国外バイオ企業との契約の制限である。

(1)方針策定

トランプ政権は、”Executive Order 14292”(2025年5月)により、病原体の感染力や毒性の強化に関わる「機能獲得研究(Gain-of-Function: GoF)」の停止や、GoFに対する国の方針の見直しを米国OSTP(Office of Science and Technology Policy:科学技術政策局)に対して指示した。これにより研究機関は、研究の透明性や説明責任の強化が求められる。特に、連邦資金に依らない民間資金による研究について、情報開示の要件を拡げる検討がなされている。

(2)研究開発に用いる製品とプロセスの管理

バイオテクノロジーの機器についても連邦資金がからむ研究開発は、制限がかかる。政府の要件に準拠したベンダーの装置を使用する必要があり、またその通りに研究開発を行ったことを説明できるような証拠データや文書の保管が必要がある。装置以外にも装置の周辺サービスも含まれており、核酸(DNA/RNA)合成装置、遺伝子シーケンシングサービスを中心として、ゲノム解析プラットフォーム、研究室情報管理システム(LIMS:Laboratory Information Management System)、研究データ保存・アーカイブ等が主な対象とみられる。

(3)公的資金に関わる契約の制限

2025年12月、米国の国防政策と2026年度予算の枠組みを定める法律(米国国防権限法、National Defense Authorization Act)において、バイオセキュリティ法(Biosecure Act, Sec.851)が成立した。これにより、政府が国家安全保障上のリスクが高いとみなす国外のバイオ企業の製品やサービスは、新規に調達しない方針となった。またそれらの企業の製品やサービスに依存して研究開発を行う民間企業との調達契約も行わない方針とした。

企業の戦略への影響

これまで述べてきた通り2022年以降、米国のバイオセキュリティ政策が見直され、強化されてきたことにより、企業の戦略にも影響が出る。バイオ医薬品等の研究開発向け製品のサプライヤーとして、米国バイオ企業大手のThermo Fisher Scientific社(サーモ・フィッシャー・サイエンティフィック)は、2025年11月、自社にDNA/RNAの抽出や分析に関わる装置や周辺サービスが、米国政府の要求に沿った対応を行っていることを文書で公開した。スイスの大手製薬メーカーであるNovartis AG(ノバルティス)は、これまで研究開発業務の一部を委託してきた中国系CDMO(Contract Development and Manufacturing Organization)との関係を段階的に見直し、米国の事業計画に対する影響がない状態であることをCFOが対外的な説明を行った。米国Bristol Myers Squibb社(ブリストル・マイヤーズ・スクイブ)は製品供給体制を確保するためのコンティンジェンシープランを発表し、地政学的な影響や規制の変更によるサプライチェーン混乱や、特定のサプライヤーへ依存するリスクに対して、リスク管理の枠組みを見直し、サプライチェーンを再構築するとした。米国バイオ医薬品大手のVertex Pharmaceuticals Inc(バーテック・ファーマシューティカルズ)はサプライヤーの見直しや代替による供給コストの増加と供給遅延リスクを発表した。

このように既存のサプライ関係の見直しや変更が行われることにより、好機となる企業もある。韓国Samsung Biologics社(サムスン・バイオロジックス)は、2025年12月、同社にとって米国では初となる製造拠点を米国初の自社製造拠点を英国GSK社(グラクソ・スミスクライン)から2.8億ドルで取得し、医薬品メーカー向けのCDMOビジネスを強化した。日本のFujifilm Diosynth Biotechnologies(富士フィルム・ダイオシンス・バイオテクノロジーズ)は2025年9月、米国ノースカロライナ州に新たな拠点を開設し、細胞培養関連の開発製造受託サービスを拡大する。

米国政府が国家安全保障上のリスクが高いとみなすバイオ企業の受け皿として事業の拡大や移転を行うケースは、計画段階のものも含めて多数あり、バイオセキュリティ政策がデカップリングの加速を促す格好だ。国家安全保障の観点で政府が介入し、業界再編が誘発される動きは他の業界でも起こっている。半導体、自動車・部品、航空機・部品、鉄鋼・アルミニウム製品、ポリシリコン・ポリシリコン派生製品、浮力タービン・部品など、いずれも米通商拡大法232条調査の対象となっている。医薬・バイオ・医療機器も同調査の途上にあることから、今後も継続してウォッチする必要がある。

前述のとおり、企業による再編が始まっている。今後5~7年をかけて業界再編が進むと見る。2027~2028年までに、大手企業によるアセットの買収やCDMO企業による北米や欧州拠点の買収が進み、実質的に契約の移管が行われるであろう。この過程で技術移管や同等性評価、当局審査が加わるなどして、局所的な製造コストの上昇や生産数量の抑制が行われる可能性がある。その結果、中堅CDMOや過小規模のサイトの統廃合がさらに進み、2029~2031年頃には業界再編を経たサプライチェーンの本格稼働に至ると考える。

プロフィール

  • 松尾 未亜のポートレート

    松尾 未亜

    コンサルティング事業本部 ヘルスケア・サービス産業コンサルティング部
    兼 未来創発センター 雇用・生活研究室

    お茶の水女子大学大学院 前期博士課程修了分子生物学専攻、2004年NRI入社。半導体、センサー分野の事業戦略プロジェクトに従事した後、電機・精密企業の再編や経営再建プロジェクトをリード。2019年MedTech & Life Scienceグループ グループマネージャーを経て、2023年メドテックコンサルティング部 部長、現在に至る。2022年より厚生労働省第8期医療基本計画・医療の質の向上のための医療機器の研究開発及び普及の促進検討委員、2023年より経済産業省医療機器産業ビジョン検討委員。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。