概要
新しい資本主義実現会議による「三位一体の労働市場改革」は、我が国の雇用慣行・労働慣行に大きな変化をもたらしつつある。他方で、現状の政府の施策ではカバーしきれていない領域も存在する。本稿では、「三位一体の労働市場改革」の更なる加速に向けて求められる政策の方向性について提言を行う。
我が国の労働市場における社会課題
我が国の賃金水準は長期に亘って低迷しており、その間、企業の人材投資や、個人の自己啓発は十分に行われていなかった。その原因の1つとして、戦後に形成された年功型の賃金体系やメンバーシップ型の雇用システムが挙げられる。仕事の価値やスキルの高低に関わらず年功的に賃金が上昇する仕組みや、職務や求められる役割、能力が不透明な人事制度のなかで、スキルアップや学び直しのモチベーションに繋がりにくい構造となっている。
一方、世界的な産業構造の転換のサイクルの加速化と我が国の人口減少・人口構造の変化による労働供給の制約により、労働市場において必要とされる仕事やスキルは、今まさに大きく変化している。「世界的な産業構造の転換のサイクルの加速化」について、例えば、DXの社会実装が進む中で、定型作業を担う一部事務職の雇用は減少が見込まれる一方で、IT分野の専門人材などの高度な知識とスキルを持つ技術職に対する需要は高まることが想定される。また、GXの進展は、多排出産業での雇用を減少させる一方で、グリーン産業の雇用を増加させる。さらに、「我が国の構造的な人手不足」については、人口減少地域を中心に介護・福祉職などのエッセンシャルワーカーの不足が顕在化している。
企業・個人の双方にとって、これまで長らく維持されてきた雇用システムや労働慣行の変革は、痛みや困難を伴うものとなる。しかし、我が国の国際競争力を強化し、構造的な賃上げを実現するためには、官民をあげた改革を行っていかなければいけない。このような背景を踏まえ、労働市場における社会課題の解決に向けて、内閣に設置された新しい資本主義実現会議は、令和5年5月に「三位一体の労働市場改革の指針」を打ち出した。
三位一体の労働市場改革
三位一体の労働市場改革の指針としては3つの柱が掲げられている。「①リ・スキリングによる能力向上支援」では、文部科学省、厚生労働省、経済産業省等において、企業向け・個人向けそれぞれの観点から多数の学び直し支援策が実施されている(図表1)。また、「②個々の企業の実態に応じた職務給の導入」においては、令和6年8月に内閣官房、経済産業省、厚生労働省による「ジョブ型人事指針」が策定され、20社のジョブ型人事の導入事例が公表された。内閣府が令和4年8月に策定した「人的資本可視化指針」も、「ジョブ型人事指針」の内容を踏まえた改訂が予定されている。さらに、「③成長分野への労働移動の円滑化」では、失業給付制度の見直し、自己都合退職に対する障壁の除去といったことに加え、求人・求職・キャリアアップに関する官民情報の共有化などが進められている。
図表1 リスキリングに関連する政策一覧
出所)第8回リカレント教育の推進に係る関係省庁連絡会議資料(令和6年9月)1からNRI作成
労働市場改革の更なる進展に向けた提言
我が国における労働市場改革は大きな進展を見せている。一方で、その中で改革を更に進展させるために求められる取り組みも明らかになってきていると筆者は考えている。
「①リ・スキリングによる能力向上支援」では、(ア)成長産業における現場人材の育成のためのプログラム開発、(イ)上級レベルのスキルを身につけるための実務経験相当のプログラム開発、(ウ)中高年齢層や非正規雇用者向けのキャリア形成・リスキリング支援の更なる強化が挙げられる。また、「②個々の企業の実態に応じた職務給の導入」では、(エ)企業の壁をこえた業界・職種単位の業務・スキル等の標準化を進める必要があるだろう。「③成長分野への労働移動」では、(オ)「公正な移行」への対応と(カ)人手不足産業における生産性向上の更なる推進、(キ)地方の中堅・中小企業の経営者へのリスキリングの強化が挙げられる(図表2)。
図表2 労働市場改革の更なる進展に向けた取り組み(提言)
出所)NRI作成
以下、上述した(ア)~(キ)について、それぞれの内容を詳述する。
(ア)成長産業における現場人材の育成のためのプログラム開発
半導体や蓄電池、GX等の成長産業を担う人材の中にも、高度人材から現場人材まで様々なレイヤーの人材が存在する。高度人材については、情報感度も高いことが多い上に、採用企業側も高い賃金を提示するのが一般的なので、リスキリングや労働移動に対するニーズが自然発生しやすい。他方で、現場人材については、需要が顕在化するまではリスキリングや労働移動に対するニーズも限定的になりやすく、必要なタイミングで必要なスキルを持った人材が市場に供給されないといった事態に陥りやすい。また、特に現場人材の育成の場合、座学で完結する講座は少なく、実習用の大規模な設備投資が必要になることも多いため、国や自治体による補助がないと企業の持ち出しで人材育成を行うハードルが高い。そのため、政府等には、こうした分野の現場人材を中心に、講座開発費用の補助や個人の受講料の補助などを行い、需要顕在化のタイミングで人手不足が発生することを事前に防止することが求められる。
(イ)上級レベルのスキルを身につけるための実務経験相当のプログラム開発
近年のリスキリング支援策の成果もあり、DX基礎スキルなどの入門~初級レベルのスキルを高めるためのプログラム開発は順調に進んでいるように見受けられる。これらのプログラムを受講した個人が、自発的に自己研鑽を行う姿勢などを評価されてキャリアアップに成功した事例も蓄積されつつある。他方で、データサイエンスやサイバーセキュリティといった中級~上級レベルのスキルを身につけるためのリスキリングのプログラムについては、現状では不足しているように思われる。このような高度なスキルを身につけるためのプログラムのあり方としては、個人が賃金を得ながら仕事に必要なスキルを習得するためのトレーニングを受けることができる「アプレンティスシップ制度(徒弟制度)」を政府と企業等が協力して提供していくことも有効である。
(ウ)中高年齢層や非正規雇用者向けのキャリア形成・リスキリング支援の更なる強化
基礎的なヒューマンスキルやポータブルスキルがあれば転職に成功しやすい若年層の正社員に比べて、中高年齢層や非正規雇用者は転職のハードルが高くなる。そのため、これらの層がリスキリングや労働移動を行うに当たっては、個々人の職務経験・スキル等を踏まえて転職の実現可能性の高い転職先を適切に検討することが必要になる。政府や職業紹介事業者等には、個人に対してこれまでのキャリアの棚卸しやキャリアゴールの設定などを丁寧に行うキャリアコンサルティングの機会を拡充することが求められる。
(エ)企業の壁をこえた業界・職種単位の業務・スキル等の標準化
成長産業や人手不足産業において人材の確保・育成を進めるためには、業界全体で協調領域として業務・スキル等の標準化を進める必要がある。例えば、デジタル産業においては、既にITスキル標準・DXスキル標準が整備され、それらの標準に対応する形で教育プログラムが整備されている。同様の仕組みを、政府や業界団体等が主導する形で、各業界で整備していくことが望まれる。
(オ)「公正な移行」への対応
GXの推進に当たっては、成長が見込まれる産業が存在する一方で、規模が縮小したり衰退したりすることが予見される産業も存在する。このような産業の影響を受ける労働者や地域が取り残されることなく、公正かつ平等な方法によって新たな雇用機会を得られるように導くことを「公正な移行」と呼ぶ。脱炭素社会の実現に向けては、グリーン分野におけるプログラム開発やスキル標準化を進めるだけでなく、「公正な移行」の推進により縮小産業から成長産業への円滑な労働移動などを促すことも重要である。「公正な移行」を実現するためには、政府や業界団体等が、縮小が見込まれる産業における雇用への定量的なインパクトを可視化するとともに、当該産業において身につけることができるスキルの親和性が高い産業を特定することで、スムーズな労働移動に向けた道筋を示すことが求められる。
(カ)人手不足産業における生産性向上の更なる推進
今後、我が国においては構造的な人手不足が見込まれる中で、介護・福祉などの人手不足の産業への労働移動を促していくことが一層重要となる。他方で、これらの産業の賃金は低い水準にとどまっているため、自発的にこれらの分野への労働移動を行うインセンティブがわきづらいのが現状である。このような現状を打破するためには、企業にはデジタル等を活用した省力化投資による生産性向上と、賃上げを実現することが求められる。また、そのような省力化ツール・技術を使いこなせる労働者を育成するための政府等によるリスキリング支援策をセットで実施していくことも重要である。
(キ)地方の中堅・中小企業の経営者へのリスキリング強化
地方の中堅・中小企業においては、そもそも経営者がDX・GX等による産業構造の転換への対応の必要性や、その対応のために従業員のリスキリングに取り組む必要性を十分に認識できていないケースも多い。そのため、政府や地方公共団体としては、単なる周知広報にとどまらないアウトリーチ型の支援により、リスキリングの必要性に関する啓発を行っていくことが重要である。
終わりに
本稿で取り上げた課題はいずれも解決の難易度が非常に高いものであり、提言した内容を実行に移す上では、様々なステークホルダーが密に連携することが求められる。関連省庁(経済産業省、厚生労働省、文部科学省)や業界団体、大学・教育機関、企業などが一体となって取組みを進めることが求められる。
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第8回 リカレント教育の推進に係る関係省庁連絡会議資料
https://www.mhlw.go.jp/content/11801000/001306090.pdf
プロフィール
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志村 太郎
コンサルティング事業本部 社会システムコンサルティング部
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平本 涼
コンサルティング事業本部 社会システムコンサルティング部
※組織名、職名は現在と異なる場合があります。